ヨシダ カズコの処女作品
北朝鮮からの望郷
『故国の灯』 吉田 和乎(登勢子)



背景は 豪雪の???
バックミュージックは「mizore」


 
昭和五十四年十一月    吉田和乎


17章在りますので読み易いように三部(6章 X 3)に分割しております
一部第1章 終戦。第2章 夕焼け。第3章 秋風(桐一葉)。第4章 名月。第5章 秋雨。第6章 闇夜。
  二部第7章 霜夜。第8章 木枯。第9章 凍土。第10章 裸木。第11章 夢幻。第12章 新月。
三部第13章 夕月。第14章 吹雪。第15章 雨風。第16章 皐月闇。第17章 白雲。完


二部(第7章ー第12章)
二部::第7章:霜夜



 七、霜夜
 次の日は昨夕から降ったり止んだりしていた秋雨が夕方になってやっと晴れた。しかし登勢の
心は晴れなかった。ソ連兵がいつ襲って来るかも知れぬという落ちつかない気分で急いだ夕食を
終えると再び迎える夜の闇は悲しいものだった。小さい良子と繁一と柳沢さんの坊やは夕食を
食べ終えると同時に眠り込んでしまった。柳沢夫人と登勢は子供達を寝床に寝かせつけて食事
の後片付けをしていると、いきなり二人のソ連兵士を連れてロスキーのカピタンが入って来た。
逃げ場を失して立ちすくんだ登勢達の前で畳を長靴のまま踏みしめて部屋の周囲をしきりに見廻して
いる。黒い頭髪、黒い瞳それは東洋人種のものであった。日本人によく似た体格と肌の色には、
登勢達の恐怖を幾らか柔らげるものがあった。しかし言葉は酷しかった。「エタドーマ、ヤジビュー、
ヤポンスキーシチャースダヴァイ…今からこの官舎に私が住むので貴女達は出て行きなさい)」
柳沢夫人、佐々木、登勢の三人は当惑の顔を見合わせたまま声もでなかった。(今から家を出る
にしても刻々と暮れて行く宵闇の迫る秋冷の戸外に住居を探す、心細さよ!)(何としても今すぐ
この家を出る訳にはいかぬ。せめて今宵一夜子供達に安らかな眠りを与えてやりたい。)
そんな思いが柳沢夫人と登勢に勇気を与えた。二人は一生懸命に歎願した。「今晩だけこの家に
寝かせて下さい。子供達はもう眠っているのです。お願いです。」片言に身振りを混じえて言った
カピタンはどう感違いしたのか登勢に向って云った。「セオドニヤベーチョラムティスピーチヤエタ
ドーマ:…?(今晩私とこの家で一緒に貴女は寝ますか?)登勢は慌てた。感違いされては迷惑千万!!
「ニ−(否)ニ−(駄目)ヤムッシーナイエズチ(私には夫が居ます)ジウユーサンゴーリ(夫は三合里に
居ます)」「エタドーマウハ、ヂハヂイチェ(ではともかく出て行って呉れ」カピタンの言葉は頑と
していた。しかし登勢は思った。いくら人種が違っても国が違っても同じ人間ではないか!人情は
ある筈だ「ヤマーリンキイスピーチ、スマトリチェ(私の子供達を見て下さい。天使の様に眠って
いるのです)」登勢のおぼろげな片言のロシア語では通じなくても眠っている幼児までも足蹴にする
ことはないであろうと良子や繁一達の寝ている処ヘカピタンを案内した。良子も繁一もあどけなく
 眠っている。すっとカピタンの表情に柔らいだものが走った。カピタンシンジャーと云って
 以前レーニングラードがゲルマン(独逸)に攻略された時に二人の幼児も妻も爆弾によって命を
失ったのであった。
 じっと幼児の寝顔を見ているシンシヤーの胸を去来する亡き家族の面影がいつの間にか繁一や
良子の寝顔に重なった。暫く思案していたがカピタンは黙って静かにその場を離れた。
それを待って居たかの様に間髪をいれずにカピタンの前へ柳沢夫人が柳沢主計大尉が秘蔵の品
〃虎の絵の掛軸〃を差し出した。「おお!」それは作者の名が判らぬまでも絵筆の運びに気塊が
こもって虎は生きた如くに描かれていた。カピタンは目を輝やかして、虎の絵を巻いて小脇に抱いた。
カピタンは一夜 待つ事に心を決したのであった。そして腕時計を示しながら登勢に向って云った。
 「ザフトラ、ウートラ、シュースチチッソ!・・・・(明朝六時迄にこの家を出て行って呉れ私は
 六時に来るから)」「ダーグーポニマユー(はいわかりました)。」登勢は安堵の思いに大きく息を
吸った。
 その登勢に背を向け二人のソ連兵士を引率して長靴の泥で畳を汚しながらカピタンシンシャー
は出て行った。これがカピタンシンシャーと登勢との始めての出会いであった。
 登勢達はやれやれと胸をなでおろしたものの、ともかく転宅の準備をしなければならなかった。
 登勢は思った。帰国の時期が定まらぬ以上、内地の土を自分の足でふむ迄は一切の流言(十月
中旬までに秋乙の官舎の日本人を帰国させソ連軍の家族が来るという)などにまどわされては
 ならぬ。 これから向う寒さと来年二月の予定である出産を思えば一日も早く帰りたい。
 どうしてでも今月中に帰りたいが・・・。海がある!海を渡る方法が無ければ帰りたくても
 帰れないのだ。
 瞼に浮かぶ姫路城の優雅な七層の楼を確実にこの眼で見る迄は安堵する事は出来ぬのだ。
 彼女は子供のオーバー、履物、肌着、おくるみ、出産に必要な品々は全部古い風呂敷に包み
 こんだ。 命をつなぐ為に食糧品は愈々帰国の時迄大切にしなければならぬ。手持ちの米に
 砂糖、塩(岩塩)、少なくなった罐詰類、それにメタボリン錠剤、ミルク、内地から持って
 来た薬品も、以前に盗難を防ぐ為に繁一の胴着に縫い込んでかくしている内地円のおさつ、
 行李には一杯に衣類をつめた。衣類は食糧にかえたり出来るので持てるだけ運び出さねば
 ならず、用意が終ったのは一時を 廻っていた。
 登勢と柳沢夫人が一睡りして眼をさましたのはもう五時前であった。外はまだ暗く秋冷の地面
 には霜柱がたっていた。ふめばサクサクとなる地面には薄く霜おいて昨夜の冷えの酷しさが
 思われた。今更の様に霜夜の野宿から救われた事を登勢は喜んだ。
 しかし五時半になれば荷物は一応全部外へ運び出さねばならなかった。
 佐々木元兵長は食堂前の広場を越えて西側に空官舎を探して来た。二軒一棟のぼろ官舎の東側
にはもう十世帯程の旧二五〇部隊の家族が住んでいた。西側は畳も床板も地元民に盗まれた
ぼろぼろの官舎であったがともかくそこへ行く事にした。東隣の人々も一週間程前に以前登勢
 がトランクを盗られた空官舎を又もや逐い立てられ引越して来て居るのであった。
 空官舎にいち早く荷物を運び込んでしまわぬとならぬので佐々木は大きい荷物を運び登勢も
 柳沢夫人も手にあう品物から先に官舎の外の北側の道路に運び出した。大山部隊長夫人の処
 の古角元上等兵や山中副官夫人の処の谷口元上等兵が手伝いに駈けつけて来て大きな物、
 重い物を先に運んで行った。
 米を古角元上等兵が、もう一つのふとん袋を谷口元上等兵が運んで行った。その中に六時に
 なったのか銃を持ったソ連兵士が三人来て誰も官舎に入れぬ様にと官舎の入口を固めてしまった。
 その頃から地元民が引っ越しと見て霧の立ちこめた朝の冷気の中に現われはじめた。彼等は
 道路に積んである荷物の中から目ぼしい物を引き抜く為に、霧を隠れみのとして現われたの
 であった。少しずつ明け初めた秋乙は充分に眠りから醒め切らず、薄暗い空気に霧がどっしりと
 覆いかぶさ って人の姿も近く迄来ないと判然としない。泥坊はそれを良い事にしていた。
 運ぶ事に気をとられていた登勢がソ連兵士の大きな声で振り向くとオモニーと男の人が登勢の
 荷物 を持って逃げて行くところであった。オモニーは古角元上等兵が追い掛けると荷物を
 返して逃げて行ったが、他の男一人はもう追付くことが出来ず、布團袋をかついだまま霧の
 彼方へと逃げて 行ってしまった。どうにか荷物を運び終ったが床が無いので背中の良子を
 おろすことも出来ず、 おんぶしたまま登勢は〃此処が明日からの我が家〃と思い整理を始めた。
 六帖の間に柳沢夫人と同居する事にして佐々木はせっせと残っている板塀をはずして来て床を
 張り始めた。床が張れた頃、食堂前の広場に捨ててあった4枚の破れ畳の台を拾って来て床の
 上に敷いた。
 たたみの表がないので、子供達は足を藁に引掛けて体中ワラにまみれて転び廻っている。これ
では仕方がないのでその上に毛布を敷きつめた。ペチカの前二帖は藁の台がないので、板の
上に毛布を敷くだけで辛棒する事にして一応住居が出来上っ一た。隣室の四帖半は橋口夫人
一家が住んでいた。
 台所の二帖には上敷領夫人一家が、六帖のオンドル(土の床で下から燃やして室の床を暖房する)
の部屋には向島夫人と坂元夫人一家とが住んでいた。どの家族も三度目の住居と定めた空官舎を
 四、五日前に又追い出されて再々度の移転であった。それも一刻を争う様に追立てられて荷物は
殆んど置き去りだった。初回の転宅をしたのは登勢一家だけであった。
 それにカピタンシンシャーのはからいで一夜の猶予が持てた事で必要な荷物の殆んどを運ぶ事が
出来たのだった。しかし引越しの際に盗られた物やうまく運べない物もあって荷物が非常に
少なくなっているのは仕方のない事だった。登勢には子供の肌着やおしめや末だ土のつかない
繁一の運動靴等の必要品が残っている事が救いであった。それに和服類が残っていて当分の売り
食いに心配ないと云う事が大変気丈夫に思えた。
 内地へ帰る日迄雨風を凌ぎ霜夜の寒さから子供を守れる住居が出来たのは登勢にとって非常に
 感謝であった。畳とは名ばかりの藁が剥き出しの畳、新聞紙や雑紙でようやく破れを蓋した襖、
 ガタピシのちぐはぐな建具、板片を打ちつけてガラスの破損を補ったガラス戸、何一つ満足な
 物は無い迄も、彼女には此の場合金殿玉棲にもまさる有難い城だったのだ。転宅の翌々日佐々木
 は樗木さんを連れて来た。樗木は佐々木の知人で年令より大分老けて見えた。見かけは50才位
 にも見えたが実際はそんなにもなっていなかった。彼は以前北鮮の電機会社に務めていたが、
 家族が郷里の鹿児島に居るので内地へ帰りたかった。居なくなった深田元上等兵の代りに柳沢
 夫人の世帯に籍をおいて帰国する予定で登勢達のぼろ官舎に同居する事になった。
 佐々木は引越以来押入れの上段を自分の個室としてそこに寝ていた。彼は日本兵狩りで拉致さ
 れてから恐怖が心に染みついてソ連兵を見るだけで体がこまかく震えて来るのだった。
 ソ連に連行されて使役に使われるという事柄が頭を去らないのだった。ソ連側が日本人を使役に
 働かせたがっている事は明確であった。殊に日本軍人の様に上官の命令に忠実で働き者で、
 骨惜しみしないで上官は命令する事だけで事が足りるのだから人手不足のソ連にとっては有難く、
 重宝な上に頭が良くて器用と来ているので、一人の日本軍人も逃がしたくなかった。
 その上捕虜という名の下に無料なのであった。
 唯仕事の代償として人間の条件を満たすにぎりぎりの状態を保つのが精一杯の食糧を給与する
 だけで良いのだから………。
 今や日本兵は労働力というより物資に他ならなかった。故に無理に逃亡する者は遠慮会釈なく
 射殺された。 又運悪く捕まれば連れ戻して他の兵士への見せしめとして友人達の目前で
 射殺された。 そして逃亡兵を出した部隊の班には特に重労働が課せられるのだった。
 ソ連軍が八月に平壌に入壌して来てから一ケ月半、今はもうその頃の跣、裸では無かったが衣服も
食糧も充分とは云えなかった。
したがって捕虜への食事も非常に僅かであった。日光をふんだんに浴びて育成されたビタミンの
豊富な新鮮で水々しい野菜とか果物は日本兵の口にはなかなか入らなかった。北鮮の特産物の林檎
が時たま病弱者用に一片だけ食事に添加されて与えられるのが珍らしい事なのだった。
それに塩は不足勝で普段は少しの岩塩が貰えるだけであった。その為に段々と栄養失調に陥いる者
が増して来たが、平熱であれば病気ではないとして高熱を出してたおれる迄は、ノルマが課せられ
 るのだった。異国で捕われの身となった将兵の総べてに肉親があり、故郷があり、又或る者には
 恋しい人や残して来た妻子があってみれば、たとえ危険が伴っても帰郷の念やるかたないもの
 があった。様々のソ連側のおどしや、厳重な見張りにもかかわらず、逃亡兵は後を絶たなかったの
 で ソ連軍による日本兵の逃亡者狩が酷しく行われ、召集解除によって家族に付された者まで、
 軍人して三合里収容所へ拉致されて行った。佐々木はソ連兵に拉致されて以来ロスキーの顔を
 見るのも恐ろしかった。彼は殆んど昼も押入れに籠ってソ連兵に会うのを避けていた。
 彼はその日は朝起ぎてからも昨夜の夢が気になって仕方が無かった。夢は故里の五月であった。
 故里の山畑で佐々木はお茶を摘んでいた。その辺一帯から宇治にかけてお茶の畑が多かった。
 すぐ目の下を瀬田川がキラキラ輝やきながら流れているのだった。川向うには菜の花が一杯咲い
て麦畑からピイチクピイチタ雲雀が飛び上っていた。
 明るい五月の光の中を若葉の香が一面に満ちて風が薫りながら彼の頬をなでて過ぎた。彼は
 〃故郷は良いなー〃と思いながらお茶の新芽をせっせと摘んだ。そして一杯になったカゴを背に
 家路へと向った。彼が家に近づくにつれ空気が淀んで来た。只今帰りました。」彼が一歩家に
 足を踏み込んだ途端、あたりは薄暗くなって親爺さんの声がした。
 「遅いな。何故もっとはよう帰らん?。早う帰って来い。遅い!遅い!遅いな。」「はよう帰り
 とうても帰れまへんどした。」「いや、遅い、遅いな!」そこで佐々木は眼が醒めたのだった。
 夢が醒めた後になっても父親の不機嫌な声が「遅いな!」と耳について離れないのであった。
 佐々木は思った。いずれ女、子供の内地への帰国は実現するだろうが自分の様な屈強な男は
 ソ連軍の使役に残されるに違いない。先日上杉元一等兵が云って居た脱走を実行するべきだろう
か? 軍医殿一家を北鮮に残して帰っても良いだろうか?。帰国の際には男は全部残留させら
れるのだ。 それだったら同じではないか?。もう来週にでもソ連側から帰国の話が出るだろう。
それは婦人、子供だけで埠頭で自分は残されるだろう。
 帰ろうか?逃亡か脱走か、否残留か使役か?”その時、隣の官舎の上杉元一等兵が現われた。
 「佐々木さん!お早よう。谷口さんと河野さん愈々脱走しましたね。」上杉は人に聞かれると
 まずいと目くばせをして佐々木を物置の陰にさそった。しかしそれでも佐々木はまだ迷っていた。
 谷口や河野に誘われた時もふんぎりがっかなかったのだが、今もなお身重な吉田軍医の登勢夫人
 や小さな児達を残して逃げ帰る事にためらいがあった。
 「じゃあ今日正午過に、こっちへ手引をするという地元民が来るという事だから。」
 と上杉は佐々木の決意をうながして帰って行った。
 朝飯を食べている時に柳沢夫人が「南田中尉の庭の河野さんも山中副官の處の谷口さんも居なく
 なったそうね。」と云った。佐々木と樗木は思わず顔を見合わせた。瞬間登勢は「ハッ」と気づ
 いた。 同時に登勢は自分の頬が硬め張るのを感じて面を伏せた。柳沢夫人は丁度反対側を向いて
 いたので何も知らずに御飯をよそいながら云った。「向う側の官舎にも上の官舎にもロシヤマダム
 や子供が沢山。一昨日も昨日も引越して来たわよ。愈々私達は内地へ帰れると云うのに男の人が
 居なくなっちゃうと困るわねえ。」それには誰も答えず樗木も佐々木も登勢も三人三様に銘々の
 思惟を廻ぐらせていた。樗木は思案していた。〃誘われて逃亡しても自分の体力では逃げきる事
 が出来るであろうか?不惑を過ぎた身でまして、佐々木の様に出仕事や畑仕事で鍛えた脚や腰
 ではないのだ。
 家族の一員になりすまして帰国する方が安全なのではないか?それに柳沢夫人が衣服を持たない
 自分に主人の大島を「背丈が同じだから遠慮なく着て下さい。」と差し出した荒野に燈火を見出
 した様な信頼しきった態度を振り切る事は出来ない。佐々木が逃亡すれば自分だけでも残留せねば
 ならないのでは無いだろうか?。一方の佐々木の頭の中では二つの意味の違う言葉が渦巻いていた。
 〃残留して帰国の時期を待とう。残留!待機!いやそれでは遅いのだ。越境するのだ。逃亡だ!
 脱走だ!〃又登勢は登勢で考え込んでいた。〃佐々木さんがソ連軍の日本兵狩や日本人男性狩で
 拉致されたり、帰国の際、埠頭で連行されるのを見捨て、私と子供だけが内地へ引揚げるの
なら、今逃げたいという人を私に引止める権利は無い筈だ。
 もし私達だけが佐々木さんを残して帰った場合には後悔と慚愧の念が私の半生につきまとうだ
ろう。 佐々木さんは使用人でもなければ従卒でもない。軍隊という旧体制の封建制を剥出し
にしたに過ぎないのだ。依存するのが当然と甘えて居る事は出来ない。
 私は自分の足で歩き自分の肩に荷物を荷ない、自分の腕で子供を抱けば良いのだ。小説〃路傍
の石〃の喜一が、だるまから手足を出した様に自分の力で立つのだ。佐々木さんを犠牲にする
事はない。
 そろそろ治安がついて、ソ連兵の〃マダムダワイ(女がほしい)〃が鎮まった現今(ソ連へ連行
 そして使役)の恐怖、心にとりつかれた様な佐々木さんを引き止めて置く事は余り勝手すぎな
いだろうか?。逃亡の可不可は佐々木さんの自由な判断にまかすべきだ。それに水くさいと云
われても、私には夫の持物(衣服、食器)を他の人に「どうぞ」と使わせる気になれないのだ〃
 その時、佐々木が「御馳走様!」と云って立ち上った。彼は樗木の方をちらっと見て、部屋を
出て行った。樗木も後を追う様に外へ出て行った。
 食後の片付けを終えた登勢が窓辺でガラス戸越しに、すぐ真上にあたる北側の官舎(ロシヤ
マダムやその子供達が一昨日引越して来た官舎)を見上げて居ると、「奥さん!」と云って
佐々木が近づいて来た。その思いつめた顔を見た瞬間、登勢は決断する時の来た事を直感した。
佐々木は云いにくそうにしながら、今朝の夢の話から始めて、現地民で南鮮へ下る手引きを
してくれる人がある事を語った。
 そして「奥さん達は帰りはっても私は残留させられますわ」と溜息混りに云うのだった。
そして「今なら脱走は成功すると思いますわ」と自信ありげに云った。登勢にとっては敗戦
直後の混乱期(丸ニケ月の間)を互に援けあって生死を共にして来た戦友の様な相手を失うのは
淋しく心細い事であった。けれども夫でもない肉親でもない相手に、それもシベリヤ抑留を
極度に恐れる人に「帰国の日まで一緒に居て頂戴、帰る時に埠頭で別れて残留させられるのは
私の知らぬ事」と都合の良い事をたのむ事は出来なかった。登勢は肩で大きく息を吸うと
「私への義理で迷って居られるのなら御心配は無用ですわ。」と一息に云った。一瞬安堵の
思いが佐々木の顔を柔げた。
「奥さん!済みまへん!勘忍しとおくれやす!」深々と頭を下げた佐々木の眼に一滴光るもの
があった。
 緊張で息苦しさを感じた彼は、落ち着かぬ足どりで押し入れに向った。僅かの持物を整理して
 無一物の樗木に残して後を頼もうと思ったのであった。
 翌朝、佐々木は見送るという登勢に「後髪を引かれるから」と見送りを断り、内地での再会を
 約して別れを告げた。
 樗木と登勢以外は未だ誰も眠りから曜めて居なかった。官舎を足音を忍んで抜け出した彼は、
 上杉元一等兵と共に、静かに白みそめた秋乙を後にしたのだった。佐々木は逃亡が生やさしい
業とは思っていなかった。けれども彼は明治以来35年間の日韓併合によって地元民が受けた
心の傷手の大きさを知らなかった。彼が考えていた以上に地元民の心は冷え切っていた。
 彼等が秋乙を出発したその翌日には、もう衣服を地元民に身ぐるみ剥ぎ取られ、代りに二人共
 ボロの薄い夏のシャツ一枚をわずか身につけているだけになっていた。隠し持っていたお金は
 とりあげられ、登勢が呉れた心儘しの餓別のピンク色をした100円(卵が一ケニ円になっていた
頃)の軍票もすっかり盗られていた。一夜の宿を頼んでも関わりあいを恐れて一軒として泊めて
呉れる家もなく、ソ連軍の警備兵をさけて、山道を選んだ二人は、黄州から東の方へと道を
外れて歩いていた。寒さの酷しい北鮮では、樹木は地元民が燃料に伐採するので大きく育つ
暇とてなく、灌木と雑木の禿山には、たまに生えている松の木の上で梟が不気味に「ホウ!
ホウ!」と鳴いた。
 岩蔭に風を避けても肌をさす霜夜の冷えは身も凍る程であった。二人は素肌と素肌をピッタリ
 合わせでしっかり抱き合う事で暖を採るしか方法がなく上杉(23才)の若い血がかろうじて
 佐々木を凍死から救って呉れるのだった。思えば秋乙の生活は、まだ天国であった。
 しかし帰心矢の如しというが矢は既に弦を離れて居るのだった。佐々木と上杉の二人は水を
 飲んで飢に耐えながら、南鮮へ南鮮へと人目を忍ぶ霜夜の野宿を重ねて歩いて行くのだった。
二部::第8章:木枯



  八、木枯
 北鮮の秋は駆足で去って行って、秋乙の風物は日一日と初冬の装いを始めていた。燃料にする
為に広場の後の食堂の建物はすっかり取り壊されて、桐の木の枯葉が赤土の上をかさかさと音を
たてて風に舞っていた。登勢達のぼろ官舎でも朝は窓のガラス戸に霜がつき、地面も屋根も一面
の霜で真白だった。それが朝日に当ってきらきら輝きながら消えて行くのだった。七色に燦めき
ながら溶ける霜は全くお伽噺の世界であった。あちらにもこちらにも宝石が輝いている。緑の
ヒスイ、紫のアメジスト、真赤なルビー、黄色のトパーズ、その色は様々に変化して最後に
消えて行くのである。ダイヤモンドの山に入ったシンドバッドの様な気分になって恍惚と見とれ
ているうちに霜はすっかり溶けて夢も希望も一緒に消え夫せて行くのだった。後には凍てついた
赤土の地面だけが現われるのだった。木枯しがまるで〃嵐ケ丘〃のヒースを吹く吹雪の様な冷た
さで登勢の心に吹きこんで来るのもそんな時だった。やり場のない淋しさと孤独に反発する様に
洗濯や掃除を始めるのだった。秋乙の官舎地帯にもソ連の将校や家族達が次々と引越して来て
道を隔てて北向いの官舎も西向いの官舎の並びにもソ連将校や家族、当番兵が住む様になり、
元二百五拾部隊の家族の住む二軒のボロ官舎一棟はソ連人の中に取り囲まれた形になっていた。
もう今日か明日かと引揚の通報を待つ登勢達の、心に関係なく秋乙は治安を恢復して、廿米道路
の道端にりんごや卵等の露店(ゴザ一枚の店)が出始め、官舎の附近へ「ヤブッキーニナーダ?」
と物売りが来る様になっていた。そして子供の居ない婦人や男の人はソ連側の通報で洗濯場や
炭坑へ使役に雇われて行く様になっていた。秋乙の治安は恢復していったが他方面では佐々木、
上杉が秋乙を脱走したのに前後して軍人ばかりでなく民間人も38度線を越境する為に平壌を続々
と南下して南鮮へと歩いて行った。
その頃ソ連側では38度線の警備を厳しくすると共に、捕虜として三合里へ収容している日本兵の
逃亡を防ぐ一策として、内地へ帰還させるという名目で遠くへ北満やシベリヤの地へ、千人
二千人と元日本兵を移動させていた。一応ソ連領ナホトカヘ集結して働きながら船便を待つの
だという事だったが、それは表面の理由であった。秘密主義のお国柄とて真実の事はソ連兵
にも判明していなかった。内地へ帰れると信じている日本兵の殆んどが北満やシベリヤヘと
送られて行ったのだったが、神ならぬ身の知る由もなく彼等は喜び勇んで三合里を出発したの
だった。行く手に死の収容所と悪名高いハバロフスクの収容所やオムスクの収容所が待つ
事など、そこで年半後には飢えと寒さに耐えての苛酷な使役の果てに死体となって凍った
シベリヤの地に埋められる運命を誰が予測できたであろうか。
毎日の様に、平壌駅に通じる秋乙の官舎地帯を三粁程西に外れた道路を旧日本軍部隊が
通って行った。〃軍人は空襲で焼土と化した内地の六大都市の復興に労役して日本の再建
に尽くす為に家族より先に帰還するのだそうだ〃とか、〃ソ連領ナホトカから北海道へ
渡って北海道の開拓に働かされるのだそうだ〃とか、〃狭い領土に一度に収容出来ぬから
軍人が先に帰還して内地を整備するのだそうだ〃とか様々の流言つきであった。
元二百五十部隊の将兵の移動も近日中にあるという話もどこからともなく伝ってきた。
どれが本当でどれが嘘なのか判断はつきかねたが、秋乙の西外れの道路を旧二百五十部隊
の将兵が平壌駅へ向って移動して行く事は本当らしかった。
 もう十月も残り少なくなっているのに、ソ連側から家族に対しては引揚に関して何の通達
もなく、次々と登勢達の果敢無い期待は、皆外れて行くのであった。自分達家族達の引揚
が遅れても、主人達だけでも早く内地へ帰して貰えるのなら一ケ月位帰国が遅れても仕方
がないと登勢は思った。だがそれも不合理な話である。屈強な労働力の凝り固まりの様な
軍隊を内地に帰して、柔弱な婦人、子供を残留させる事の矛盾を思うと、軍人を内地へ
帰すというのも信じがたい様な気がするのだった。といって、一言の抗議も許されない
現状であれば、総べて成り行きにまかすしか方法はなかった。何か一言進言すれば
「お国は無条件降伏をしたのだから、負けたのだから仕方ないでしょう!!」とソ連側
からピシャリとシッペ打ちされた返事が返ってくるだけであった。
 十一月になったばかりの或日、秋乙官舎の世話役をしている橋元省三元軍属から、
〃愈々明日、旧二百五拾部隊の将兵が移動するらしい〃と言う話が伝わって来た。
時間は確定しないが、秋乙の西外れの道路を通るのは、多分午後二時頃であろう、
という事であった。その話を聞いても登勢は余り乗気になれなかった。〃今更、
夫に一目会ったとて何になろう!〃佐々木の脱走以来、他の家族と違って男手がなく、
幼児を連れている身には〃元気で子供を内地へ連れて帰る〃事が当面の問題として
大きく登勢の肩にのしかかっていたので、子供を中心として重点的に行動したい
と思っていた。同じぼろ官舎の夫人達も見送りに行くという人と行かないという人と
に別れた。上敷領夫人は、出産を間近にひかえている身であったので、遠く
二軒の道を往復するのは止める。と言って、最初からあきらめていた。柳沢家では
夫人よりも、栄子ちゃん、幸子ちゃん、の姉妹が父親に会いたいから絶対に見送りに
行きたいと主張した。夫人達の中で見送りに行くと言って最も熱心だったのは
河島夫人であった。抜ける様に色白な肌は病的なまでに冴えて、新株美千代に似た
顔立をした夫人は、登勢や上敷領夫人と同じ年令(二十六才)であった。登勢は河島
夫人を見ていると、色白の次妹の紀代を何故か思い出すのであった。
 博多市の素封家の独り娘として生れた河島夫人は、蝶よ、花よと育くまれ、幼い
ときには母に甘え長じては父に頼り、結婚してからは夫に依り凭れて来たのであった。
亦、婿養子として結婚した夫の河島少尉は、非常に優しい人柄で、結婚後も声を
荒立てる様なことは一度もなく夫人を心から愛していた。晩婚だったので来年三月の
 初めに、最初の子供が生れる予定であった。その夜河島夫人は寝つかれなかった。
 故郷の父の顔が、そして母の顔が夫の顔と重なって、夜もすがら彼女の頭を去来する
 のだった。明日は夫に会える。という期待に胸が弾んで来るのであった。翌日は朝
 からどんよりと曇りがちなお天気であった。「ねえ、奥様送りに参りましょうよ。」
 登勢は河島夫人に誘われるとむげに断り切れなくて遂々行く事にした。「うちの
 敏子(良子より一本程年長)と一緒に遊ばせながら見てあげましょう」と言う上敷領夫人
 の好意に甘えて良子をあずかって貰って出かける事にした。男の人は行かない方が
 良いという話が聞こえて来た為、柳沢夫人や河島夫人や坂元夫人と一緒に女と子供
 だけで出かけた。
 久し振りの遠出に夫人達の心は緊張していた。繁一は物珍らしげに周囲を見廻したり、
 橋口さんの了ちゃんや浩ちゃんと石を蹴り蹴り歩いていた。官舎の並んだ坂を下りて、
 秋乙の丘陵地を東西に走る二十米道路に出ると、よく伸びた箒草や蓬の枯草の横を、
 凍てついた赤土の道路が真直ぐに西へ延びているのだった。遥るか前方の果てに、
 粗末な秋乙郵便局がまるで堀建小屋の様な不粋な姿を見せて、その向うには病院と
 思われる建物らしき物が漠然と見えるだけであった。枯草の野は荒涼として不安な
 ほどに広がっていた。夫人達は銘々に自分の夫の事を考えながら黙りがちに歩を
 運んで行った。夫人達が目的地に到着した時は、一時を少し廻った頃だった。
 登勢達は道路がよく見える高台に拠って待つ事とした。
 しかし時計が二時を指しても二時半を過ぎても、三合里の方向から誰一人現われて
 来ないのだった。
 木枯しが赤土の砂埃りを巻き上げながら、登勢達を吹き過ぎて行くばかりで、軍靴
 の音も聞こえず時間は流れた。寒さに吹きさらされながら、夫人達は待っていた。
  もうどれ程待っただろうか?。夫人達の頭の頂点から足の爪先迄、寒さが浸透して
 来た。登勢も足首が冷えて、足の爪先は痛い程であった。登勢は繁一にオーバは着せ
 て来たものの時々咳込むのが気になった。(元日本軍がそして二百五十部隊が通過して
 行くというのは本当の事なのであろうか?) 皆の顔にそろそろ失望と疑惑が現われ
 始めてきた。そして失望がなかば焦燥に変り出した頃だった。「おーい。おーい。」
 と呼ぶ声が聞こえて来た。三合里から平壌に通じる道路と、秋乙からの道路が丁字型
 に交叉する処へと、人々は思わず駈け寄ったが。△△△。そこに見えたのは兵隊さん
 ではなかった。自転車に乗った国民服の男の人が、「おーい。」と呼びながら近づいて
 来た。元二百五十部隊によく出入りしていた、現地召集の金沢元軍属であった。自転車
 を降りて「橋元いますか?。」と言うと人垣の中へと入って行った。登勢はその時に
 なって、はじめて秘かに橋元氏が来ている事を知った。
 橋本省三は元の二百五十部隊だけでなく、秋乙全体の家族の世話役をしていた。
   さすがに二百五十部隊の家族には遠慮していたが、ソ連兵を相手に、「マダムダワイ。」
 の斡旋をしているという評判であった。女衒(ぜげん)というのでは無いにしても、
 ソ連兵からの貰い物で、お金と物が沢山あって裕福に暮していた。敗戦後の内地へ
 帰ってもこの様に満ち足りて暮らせないであろうと云う考えが、忸怩とした思いと
 共に彼の胸底にはあった。橋元夫人は「内地へ帰っても食糧難で大変なんだから……」
 と暗に日本への引揚が延びても良い様な事を云っているとかの噂もあった。他の家族達
 や日本人が目前に迫っている寒さと飢えを全身で感じている時だけに、省三は二百五拾
 部隊の将兵と正面切って顔を合わせる事はさすがに気が筈めた。
 騎兵隊の家族の夫人達や病院の夫人達や薬剤師の一幡氏の後に、まぎれていた橋元は、
 「仕様がない。」と言った顔をして出て来た。そして自転車の男金沢から話を聞いて
 皆に伝えた。「部隊が出発前になってから編制替等で手間どって出発が遅れたので、
 こちらへ来るのは二時間位後になるでしょう。」それを聞いたとたん、登勢は上敷領
 夫人にあずけて来た良子が迷惑をかけていないかと、、心配になって来た。それに
 繁一に風邪を引かせても困るので二時間もこのまま立っている事は出来ないと思った。
 .河島夫人に悪いとは思ったが、断って先に帰る事にした。ぱらぱらと帰る人があって、
 結局残ったのは最初の三分の二程の人数になった。
 河島夫人は登勢が帰ったので気を落としたが、夫に会えるかも知れぬという期待に支
 えられて寒空に佇んでいた。
 重く垂れた雲の合間から洩れる日影は佗しく、「ヒュウー」と鳴る木枯しの音は悲しく
 胸に響いた。首に捲きつけた毛皮のショールの端に手を入れても、風の冷たさが全身
 から手足に、酷しい冷えを伝えて来るのだった。
 彼女は優しく話しかける様な夫の面影を心に描いて、足ぶみしながら一心に寒さに
 耐えていた。
 登勢達が帰って一時間余りもした頃、道路にざわめきが起きた。「見えたよ!。」
 「来たよ!。」ザクッ。ザクッ。ザクッ。軍靴の音と共に、隊伍を組んで近づいて来た
 のは待ちに待った同胞の部隊であった。くたびれた軍服。丸腰。ではあったが、
 背には背嚢を担ってその顔は、内地への帰還を信じて口々に叫んだ。「皆さん、
 お先に帰ります。」「お先に内地に還ります。」「どうかお元気で!。」「皆さん、
 お先に!。」「お先に。内地へ還ります!。」騎兵隊の家族の中から、稚ない声が飛んだ。
 「あっ!お父さん。お父さん!」「おう!これを。」背嚢が揺れた。隊伍が乱れた。
 つと振向いた警備のソ連兵が大声で叫んだ。「シトオ?ダバイ。ダバイ。」空に向けて、
 二発。「パン!」「パン!。」銃が火を噴いた。人々は息を呑んだ。瞬間!。
 表面の平静を取戻して、振り返りながら隊伍は進んで行く。二百五拾部隊の知った顔の
 ありや無しや?。涙を呑んだ顔!顔!。夫人達は力一杯に手を振った。「お元気で!。」
 手を振っていた河島夫人は思わず声をあげた。「あっ!。」「おお!。」同時に河島
 少尉も気付いた。「さっ。」と二人の間をテレパシーが流れた。千人の隊伍の中の一人。
 いや幾万人であっても同じであっただろう。河島夫人の眼には一人しか映らなかった。
 まるで金色のライトを浴びた様に河島少尉の顔が浮き上って、その周囲には後光が
 射している様に見えた。「俺は先に還るが、君も元気を出して無事で内地へ還るの
 だぞ!。」その顔は優しく語っていた。しっかりと見つめあった眼と眼に、無言の
 思いが通い合い、その儘遠ざかって行く。「パン!。」「パン!。」「パン!」
 ソ連兵は意地悪くむやみに空へ発砲した。「ザック、ザック、ザック。」軍靴は悲しみの
 どよめきのような響きをひびかせながら遠ざかって行った。「これはお父さんの背嚢!。」
 騎兵隊の家族の中から十二、三の少女が駈け寄って、落ちている背嚢を大切そうに拾い
 上げた。背嚢に頬ずりをしている少女の髪を逆立てて木枯しが吹いて行った。河島夫人は
 木枯しと共に去っていった恋しい人の行方を眺めて茫然と立ちつくしていた。

 治安の恢復して来た秋乙では登勢達のぼろ官舎へ毎日の様に子供じみたソ連の当番兵が
 遊びに来る様になっていた。コ−リャ、やらミツシャ、やサ−シャ、は何と言う事なく
 遊びに来て種々と自慢話をして帰るのが普通になっていた。連立方程式の基本型を見せて
 「これが出来るか?。」とか、因数分解が出来るか、とかしきりに言うのであった。
 地図を見せてこれがイギリス、これがソ連、これがフランスで、首府はパリ、ドイツは
 何処だとか・知識を披歴して見せるのである。学校へは四年も通ったから良く識っていると
 言うのである。舟元元上等兵や小吉元上等兵が相手をして、「自分達は学校へ八年も
 通つたが、そんなむつかしい数学はとても出来ない。」と首をかしげて考える
 素振りを見せると、「八年も学校で何をしていたか?。」と指を折って不思議がるので
 あった。君程よく勉強していないから判らない。君はえらい(ハラショ−)だ。」
 と言って皆で感心して見せると得意満面で帰って行くのであった。サーシャは長身で
 無口であった。何事も黙って、コーリヤやらミッシャの話を、笑いながら聞いている
 方が多かった。ミッシヤーは小柄で色白の赤い毛をした十八才の少年兵であった。
 郷里に十四才の恋人があった。男の赤ん坊が一人あるとの事であった。目の大きな
 柔らかな頭髪のウエーブのよく似合う可愛いいリーべの写真を肌身離さず大切に、
 持っていてよく見せびらかした。しかし子供は国が育ててくれるからと涼しい顔で、
 写真も持っていないし、全然関心がなかった。この少年パパは何ともあどけない
 ものであった。 コーリャは中肉中背の頭髪も黒くがっしりとした体躯の蒙古系の
 顔をした少年兵で色が浅黒く、十八才という年令よりは幾分老けて見える真面目そうな
 少年であった。
  ここの勤務が終ると休暇を貰って帰るのだと嬉しそうに語るのだった。コーリャを
 見ていると何となくコサック騎兵を連想させられるので、登勢達はコーリャの事を
 日本人同志の話の時はいつも〃コサック〃と呼んでいた。
 コーリャは戦車隊に属していて、何か言うとそれを誇りにしていた。戦車隊の時計を
 誇らかに坂元や橋口の坊やに見せていた。と言うのは戦車隊員は優秀な者しかなれない
 という事らしかった。
 (日本人の外出禁止)を言われた革命記念日も無事に過ぎた或日。非常に困った事が
 もち上った。コーリャが自慢にしていた時計が紛失したのである。私物では無く
 戦車隊の物である。コーリャが顔色を変え、目の色を変えて、ぼろ官舎へ飛び込んで来た。
 「チャッスイ、時計ニエト、マーリンキイ、チャッスイニエト。」と叫んでいる。
 「少年達の誰かが戦車隊の時計を盗ったのだろう。」と言うのである。男の子を
 全員独りずっ呼んで詰問し始めたが誰も知らない。遂々業を煮やしたコーリャは、
 少年達を物置小屋へ監禁してしまった。最初の間は誰も泣かなかったが、夕暮れが
 近づくと最年少の清君(七才)が泣き始めた。その声を聞いて少年達は次々と泣き出した。
 木枯しの吹く秋乙の重い空気を震わせて聞こえる子供の泣声には親心迄うら悲しく
 させるものがあった。
 黄昏と共に底冷えがあたりを包みはじめた。物置小屋から洩れて来る少年達の
 泣き声は、夫人達の母心を悲しく揺ぶるのだった。戦車隊の時計がないと、
 コーリャが非常に困るらしいと言う事は、ぼろ官舎の日本人達にもよく理解出来たが、
 罪もない幼い少年達を、物置小屋に監禁するとは理不尽な事である。
 コーリャは「時計が出て来る迄、物置小屋から子供達を一歩も外へ出さない。」
 と戸の外に厳として頑張っている。遂々橋口夫人が、「あんな泣声を聞いていると
 私達迄たまらないわねえ。何とかならんね。?。」と言い出した。誰もがやり切れない
 気分になっていたので、皆で相談の結果、コーリャと一番心安く付合っている舟元
 元上等兵が、交渉にあたる事になった。舟元元上等兵は、「君の様に頭脳の良い人が、
 少年達が時計を盗っていない事が判らぬ筈はない。罪も無い子供をどうして罰するのか?。
 子供達を早く小屋から出してやって呉れ。ぼろ官舎の日本人は皆で、君の探している
 チャッスイ(時計)探しに協力しよう。」と身振りを混じえて頼み込んだ末、やっと
 放免になった。あたりはすっかり暮色に覆われて空に群れていた鳥がそれぞれの
 塒に帰る頃だった。赤く瞼を泣き腫らして、泣きじゃくりながら、少年達は小屋から
 出て来た。男達も夫人達も夕食も食べないで、一生懸命に時計を探したが、出て来ない
 のだった。手のほどこし様もなく、本当に処置無しの有様であった。茶褐色の
 角張った直径約七センチ程の六角形のくさり時計の様な物だ、と言われて登勢も
 皆と一緒に探したが出て来なかった。
   コーリャは仲間にねたまれたのではなかろうか?。きっとコーリャの仲間の仕業
 だろうと言う噂であった。
 四、五日は「チャッスイ、時計、チャッスイ」で明け暮れたが、その中に左遷
 されたのか、コーリャの姿も見かけなくなり、時計の話もコーリャの噂も日本人の
 間から何時となく消えてしまった。
二部::第9章:凍土



  九、凍土
 秋乙に住む日本人の男達も女達も、切ない迄に内地帰還を望み、今日か?明日か?。と
来る日来る日に期待をかけていた。しかし、帰国日は沓として知れず、不安焦燥のうちに、
月日は流れて十一月も半ばになっていた。
 東北よりに山を背負った秋乙にゆっくりと朝日が昇り、赤土の凍土の表面が少しずつ
溶けて幾分か気温が柔ぐと、女達は床に敷いている毛布をあげて、埃をはたいたり床板
を上げて(畳の台のない場所)ごみ屑を床下に掃き落としたり、と言う様な風変りな朝の
掃除をしながら、寒さに向かう不安を冗談にまぎらせていた。「丸で乞食の掃除みたいよね」
こんなどん底生活をしていると、磨きをかける床もないし、違い棚もないし、何も飾りが
無いのだから、お掃除も簡単ね。水屋は空の石炭箱だしね。一つの空箱が食糧貯蔵庫にも
なるし食卓にもなるし水屋にもなるし。」「家財道具は無い方が生活が簡単ね。」
「でもそれも程度の問題よ。寒さが酷しくなると大変だわよ。お野菜が無くなるしね」
「昨年の今頃は沢山の冬野菜(白菜や大根、牛蒡、人参)を買い込んでいたものねえ。」
「寒くなると困るわ。」「寒いのは厭ねえ。」「余り寒くならない間に帰りたいわー。
でも一体何時頃に帰れるのでしようねえ。」「帰りたいわ-」。話の合間に不安な本心
が顔を覗かせてくるのだった。
「今年は昨年に比べて気候が暖かいから助かるわねえ」「でもこんな位の寒さでは済ま
ないから」「物置に残っている燃料も後一週間で失くなると言う事だし。」「石炭も
なくなるし、帰国の目標は全然つかないし、全く困っちゃうね。」柳沢夫人の言葉に
皆同感の思いであった。 一瞬!!。誰もが黙り込んでしまった。△△△△△△  その時坂元の坊やと佐田が「向い側のソ連兵の官舎で〃練炭や屑炭や粉炭はニナーダ〃
、(不要ぬ)と言っているよ。」と言って駈けこんで来た。早く。気の変らぬうちに貰い
に行こうと言う事になって、居合せた全員が総出でバケツを持ち出して粉炭を運んだ。
そして汚れついでに粘土質の赤土と混ぜて「たどん」を作る事となった。
 珍らしく小春日和で風は冷たいが日射しは柔らかく人々を包み、澄んだ空には
爆音高くヒコーキが飛んでいた。「ロスキーサマリョ−。エタアメリカン(アメリカ製)。」
誇らしげにミッシャーが手を上げた。大声で再びミッシャーは叫んだ。「
ロスキーサマリョー。ハラシヨー。」余り無邪気で嬉しそうなので、登勢も思わず
「ダーダ。」と相槌を打ったものの馬鹿らしくなって、忙がしそうに「たどん製造」
に取り組んだ。佐田が粉炭に赤土を混ぜると、坂元の兄ちゃんの坊や(保)がそれを掬った。
樗木と小吉(元上等兵)と舟元(元上等兵)はソ連軍の洗濯場へ、使役に行って留守であった。
(使役は洗濯場だったり、炭坑だったりした。)夫人達は、まるで幼児が泥んこで土饅頭を
作る様にして皆で丸めた。粉炭と赤土の凍土はお湯を沸して混ぜ合したにも関わらず、
凍てっきそうに冷えきって丸めている指の先が、痛い程であった。けれども何故か心は
弾んで、〃窮すれば通ず〃と叫んでいる様に誰もが明るい顔になっていた。
 ぼろ官舎は忽ち「たどん屋」に変貌して、真黒な粉が散らばり、官舎の南側の窓下や
「おんどる」の横には、〃墨を彩ったテニスボール〃の様なたどんが一杯に並んだ。
手も顔も鼻の穴まで、真黒になった顔を見合せて、相手の墨のついた顔を笑い合いながら、
お昼過ぎには「たどん製造」がすっかり終った。
 産後風邪を引いて、おんどるの部屋に臥っていた上敷領夫人が、部屋の窓際まで出て来て
橋口夫人に、鹿児島弁で、橋口夫人の顔についている炭を指さして何か言っているのが、
柳沢夫人や河島夫人や登勢達には何も判らず、異人のたわ言を聞いている様で可笑しな
言葉だと、にやにやしながら聞いていると、橋口夫人が「貴女達には判らんでしょう。」
と言って通訳をした。上敷領夫人が「皆さん顔まで真黒になって働いていらっしゃるのに、
私独り白い顔をして寝ていて済みません。」と言ったら橋口夫人が「遠慮しなくても貴女
は寝ていて乳牛の様にお乳を製造すればいいので、私の顔は洗えば生れつきの白い顔に
すぐ戻るから」と言ったのだそうだ。余り色白とは言えない二人の夫人の言葉のやり
とりに、一層可笑しく改めて皆が笑った。笑い声は凍てた赤土の上を、からからと
空虚に響いて転んでいった。
 コーリャの時計の事件があってからも、それとは関係なくサーシャとミッシャはよく
遊びに来た。そしてハッとかけ声と共に、見事な倒立(逆立ち)をして見せた。登勢達が
拍手をすると、何度も倒立を繰返したり、少年達と腕角力をしたりして、他意なく遊んで
帰って行くのであった。ロシヤの黒パンを時々持って来て皆に配って呉れたりもして
シンプルツェン(単細胞)とも言うべきお人好し振りであった。一ケ月程前ミッシャに
黒パンを貰って最初口にした時には、夫人達はその酢っぱい味にへき易した。
一口食べて「わあー。すえている。」と言って吐き出したものだった。けれど
その酢っぱい臭のする味にもだんだん馴れてきたというより、飢えと寒さが近づいて
来て、その一片の黒パンもあだや疎そかに出来ぬと言う事でもあった。
 寒さが段々厳しくなって来るにつれて、サーシャもミッシャも他の下士官連中
(時々来て気楽に話して帰っていた。)も来なくなった。
燃料の節約で夜しかペチカもおんどるも燃やさなかったので、ぼろ官舎は一層寒々と
して十二月を迎えようとしていた。
 選挙で冬を迎えた平壌の市内では、到る所にポスターが貼られていた。寺洞や美林に
通じる道路側の塀にもペタペタと朝鮮文字のポスターが貼られていた。登勢に判るのは
「金日成」という文字だけであった。足りなくなった食糧の買い出しに、寺洞の市場へ
出かけた登勢は、始めて選挙があった事を知ったのであった。「金日成」の勝利で、
選挙は終り、「北朝鮮人民共和国」と言う人民政府誕生の準備が始まろうとしていた。
しかし秋乙は、ソ連軍と元日本軍の家族や、軍属とその家族達の治外法権的な状態に
あったので、秋乙の住民の生活には余り関係なく、政権は動いていた。
 新聞もなく、ラジオも無く、人伝えに聞く噂だけが、僅かに社会の動きを知らせて呉れ
るのだった。事情が何一つ判らぬだけに、占いめいた事やら、「こっくりさん」等がよく
流行して、帰国の時期を定めたり、臆測で取沙汰をしたりしている間に、月は師走に
変っていた。
 登勢のお腹も、黒い上っぱりで、幾らかは隠せても、隠し切れぬ程に嵩を増して、
妊娠八カ月の貫禄を充分に示す様になっていた。登勢はもう後一ケ月足らずでお正月が
来ると思うと、あせりをおびた気持で、出産予定日の二月中旬迄には、内地へ帰りたい
と思った。 夫の吉田軍医の生家の、二百米程南の「七種橋」のたもとには、大きな
 公孫樹(イチョウ)の樹があって、秋も十月の半ばを過ぎると、沢山の銀杏(ぎんなん)が
 風に吹かれて、音を立てて落ちるのだった。[吉田軍医の祖父が安富町から福崎町へ移住
 してきた時に植樹した銀杏]子供のくせに繁一は、銀杏の炒ったのが好きでよく食べた。
 登勢はその大きな公孫樹が黄色に色づいて、夕陽に輝いているのを見るのが好きだった。
 十一月になると、黄色が段々と濃くなってそのうち一杯に黄色の落葉を散り敷きながら、
 晶子の歌の様に、金色(こんじき)の小さな鳥を舞わす銀杏の木!。もう師走の声を聞げば、
 金色の小鳥も残り少なくなって、数える程が梢に震えている事であろう。銀杏の葉が
 全部散った後も、高く天に手を伸した様にして、梢は彼女を招いてくれるのだ。
 どんな困難をも乗り越えて、子供達と共に、帰国せねばならないと、登勢は思った。
 それは祈りにも似た切ない迄の決意でもあった。
 樗木は元北鮮の電機会社に勤めていた関係で、電気に委しかった。使役に行かない日は
 ソ連兵の当番がアイロンとかラジオの修理を頼みに来て、呼ばれて出かける事が多かった。
 そんな時は、不要になった電気工事用の部品を、貰い受けて帰って来た。そして
 廃品を使って鉄片に、丹念にコイルを巻き、お風呂に漬けるだけでお湯が沸せる道具を
 作った。官舎の電気代は無料で使いほうだいであった。幾ら使っても誰も検針に来る
 事もなく、電気風呂沸し器は、寒さに向って大変役に立った。丁度。パーコレーターの
 コーヒー沸しや、電気ポットを大きくした様な物であった。唯難儀な事には、
 アースが炊事場の水道の蛇口に取り付けてあるのだった。何げなく水を出そうとして、
 蛇口をひねると、いきなり「ピリピリピリ」と全身に電気が来て、肩の辺りの骨が「
 ガクッ」と鳴った。登勢達はアッ!」と声をあげて飛び上ったものだった。
 最初の間は水道に手を触れるのが恐ろしくその都度、電気を切って水を使っていたが、
 段々と要領も判って来て、「ピリピリ」にも馴れて、感電の心配もしなくなり非常に
 調法した。お風呂の燃料の問題はこれで解消したものの、引揚の時期が遅れた為、
 終戦時に糧秣から直接分配を受けた食糧も、三ケ月半の徒食に加えて盗難に逢ったり
 して、残り少なくなっていた。手持の米を持たない家族の為に御飯だけは共同炊飯
 にしたが、使役に行く男達の働きだけに依存する訳にもゆかなくなっていた。
 窓の外では坂元の清と繁一が空缶を蹴って、遊んでいた。玩具の無い子供にとっては、
 何でもが玩具に変った。空缶はかん高い音を辛て、凍土の上を転がっていた。
 その音を聞きながら、明日から働きに行こうと登勢は決心するのだった。
 翌朝は粉雪が朝から降ったり止んだりしていた。
 柳沢夫人に良子と繁一を頼んで、九時頃に上敷領夫人と登勢は、仕事を探しに出かけた。
 すぐ北の一段上の官舎へ上敷領夫人が行く事にして、その次の段の北側の上の官舎へは
 登勢が行った。「スドラァスヴイチェ」(今日は)「アラボートイエスチ?」
 (お仕事があるでしょうか)。」ノックに応じてマダムが出て来た。
 「ダー。ダー。セラチイエスチ。(ええ、洗濯があります。)イジ−スダ−ダ-。
 (此方へ来なさい。)すぐに浴場へ案内された登勢は、浴場に自堕落に投げ出された
 洗濯物の山を見た。排泄物にまみれたおしめ。マダムの月の生理に汚れた下着や
 肌着類。日本人ならば自分で処理するであろう様な汚れ物の山に、登勢は吐気を
 もよおした。けれど仕事を与えられた事を、喜ばねばならぬと、思いなおした。
 幾ら思い直しても涙が溢れて、はらはらと洗濯物の上にこぼれた。敗戦の屈辱感が、
 悲しく彼女の心を苛なむのだった。登勢は何も考えずに一心に、洗う事に専念した。
 洗っている間に汗が流れ出て来た。その汗は涙を払った。洗濯が気分のわだかまりも
 一緒に濯いで呉れた。洗い終った頃には涙も乾いていた。汚れのひどいのは二度洗い
 をしたので、洗濯は割合時間がかかった。全部干し終ったのは十一時前であった。
 彼女が一生懸命に丁寧に洗ったのに、報酬は安かった。帰る時ロシアマダムは五円
 しか呉れなかった。マダムも生活が苦しいのか、それとも吝嗇なのか、登勢には
 判断がつかなかった。 重い気分で外に出た登勢は、薪にする為すっかり壊した食堂
 舎跡の一枚残らず葉を落した枯木の様な姿の桐の裸木の下に立って、地肌をむき出
 した山を眺めていた。
 登勢の生れは播州宍粟の山崎町であ.った。林業が産業の一番に数えられる山国に
 育った彼女は、山には樹木が、沢山茂って生えているものだと、概念づけられていた。
 けれど眼の前の山は、何とも殺伐としたものであった。赤土の山肌に潅木が
 みすぼらしく枯れ葉が風に揺れていた。登勢は無闇に故郷の山が、懐かしく
 恋しかった。〃播州宍粟は山の国〃と民謡にまでも歌われ、整然と生えて並んだ
 桧や杉。それに音水(おんすい)や赤面(あかさ)は紅葉の名所としても知られていた。
 朝は朝霧の中から桧や杉の青さが現われ、谷川のせせらぎは澄みきっていた。
 山の清明な空気と水、それこそ人間の母胎の様な、本来の自然の姿ではなかろうか!
。  山崎町の最上山の紅葉山も、ハイキングコースとして自然公園になっていた。
 十一月になると美しく紅葉した沢山の楓が見事であった。娘の頃は美しく紅葉した
 楓の下で野点てのお茶会を楽しんだ事もあった。恵まれて育った娘時代、
 山が何時もそこにあった。〃故郷の山の懐しきかな。〃登勢の口から〃ふう〃と
 溜息が洩れた。〃あーあ-帰りたい!。涙が一条二条と頬を伝っていた。
 その時靴音を響かせて、後から声がした。「スドラァスヴイチェ(今日は)ドクトル
 マダム吉田奥さん」振りかえると少年ソ連兵ボーリャだった。目ざとく涙を見つけて
 「チオシトヴイグルウスナ?(どうしたの何が悲しいのか?)ムツシィナニエト?
 (夫が居ないからか?)」「ニエト、ヤホチュウ、ダモイヤポン(いいえ。私は日本へ
 帰りたいの。」それは秋乙の日本人全部の心の叫びでもあった。
 「アバンダーダー(そうですか成程)。」と云ってボーリャは一寸首を右へ傾け、
 手を振りながら南へ下りて行った。怪しげな雲ゆきの空からそのボーリャの背にも、
 登勢の肩にも、ふわふわと粉雪が散りかかっては消えた。
 登勢がボーリャと知り会ったのは、ぼろ官舎へ移ってまだ間も無い頃であった。
 萩原大尉の夫人の処に居た藤沢伍長が、足の膿瘍を腫らして困っているボーリャを
 連れて登勢の所に来たのだった。その頃登勢は、早晩ソ連軍より通達があって
 十月中には内地へ帰国出来ると信じていたのであった。それでびっこ跛を引いている
 ボーリャに、惜しげもなく手持ちのアクチゾール(赤い色をした初期のサルファ剤)2・
 の注射をしてやったのだった。その筋肉注射一本が、生まれてから注射等打った事
 のないボーリャの体にどんな特効薬的な効能を現わした事か!
 ボーリャは注射器を消毒している登勢の手元を珍らしそうに眺めながら、
 「それは死ぬ時にする物と違うのか?」と言っていたが、怖る怖る打って貰った
 注射一本の効験の偉力は、何時の間にか登勢をドクトルマダム吉田奥さんに
 持ち上げていた。無邪気なボーリャの笑顔に幾分気を取り直して、登勢が重く
 垂れた雪雲のように重い足取りで官舎に帰ると、上敷領夫人はもう先に帰っていて、
「奥さんどうでした?、私は小さいりんご(国光)一コ(約六円)もらっただけよ。」
 と言ってがっかりしていた。「明日も来る様にと言う事だけど、もう行く気がないわ。」
 と肩を落として溜息をついた。「今日、お仕事にいらっしたの?」河島夫人が部屋に
 入って来た。「ええ。だけど駄目!。もうすぐお正月が来ると言うのに何と言う
 うらぶれた年の瀬でしょうね。」上敷領夫人が佗しそうに言った。「内地に居れば
 少しでもお餅の配給もあるでしょうにねえ。」と河島夫人も新珠美登勢に似た色白
 の顔に淋しい笑いを浮べて言った。登勢は黙って二人の話を聞きながら餅搗で賑わう
 生れ故郷の年の瀬を思い出していた。
 宍粟の山崎町には上寺町という部落があって、新旧のお正月には部落全員が餅搗組合
 を作っていた。五-六人が一組となって、上寺組の揃いの法被(はっぴ)姿も凛々しく、
 蒸篭(せいろう)や臼や釜、そしてかまどまでも荷なって運んでは町内を戸毎に、
 お餅を搗いて廻るのだった。三人の杵を持った人が二人と一人で向かいあって、
 「エッー。」「ハッー。」「エッー。」「ハッー。」と掛け声勇ましくお餅を搗く
 のだった。「ペッタン。」「ポッタン。」と三本の杵の落ちる間を縫って杵取りが
 素早くお餅をこねる。まさに名人芸とも言うべき鮮かなお餅搗きだった。登勢の子供の
 頃は、一軒で拾臼以上搗いて貰う家が沢山あって、景気の良い音が町中に響いて
 年が暮れ、新年の年を迎えるのだった。登勢は妹の紀代や百代や文代(四女)
 そして周代(五女)達と、どんなにこのお餅搗きを楽しみにして育った事か!!。
 「もういくつねるとお正月:、.」と幼ない歌声迄が杵音と一緒に流れた。十二月から
 二月の立春迄は、町中が新正月、寒の餅、おかき、旧正月、節分と、江戸時代の本田藩
 城下町らしい習慣や杵音に賑わうのであった。戦争が段々と苛烈をきわめ、
 お米(糯)の配給が少なくなって来てからも搗く臼の数は減っていたが
 田舎町の事とて、近所で持ち寄ったり、農家から工面して貰ったりして餅搗きの
 風習は続いていたのだった。
 「今年は、とてもお餅は食べられないわねえ。お餅どころか、お米(御飯)さえ
 食べられるかどうか、先が案じられるものねえ。」と上敷領夫人が丸い目を
 ぐるぐる廻すようにして言った。登勢は〃そうだ!今年はお餅が食べられない
 代りに炊った糯粉のお団子を作ろう!と思った。引越しの際以前の官舎に糯粉を
 一袋置き去りにして居る事を思った。後に入って住んでいるソ連人には、小麦粉以外
 は要らないのではなかろうか?引揚げの定まる迄は何でも大切にしなければならない。
 ともかく、以前の官舎へ行って見ようと考えた。河島夫人達と三人で相談をした結果、
 当然に自分のものでも、糯粉は早く取りに行った方が良いだろうと言う事になった。
 しかし、クリスマス前後は〃ソ連兵〃が朝からお酒を飲んで遊ぶので、日本人会から、
 外出を禁じられていたので、二、三日待って出かける事にした。ソ連では、
 クリスマスに、皆お酒を飲んでマダム相手に、ダンスをしたり、トランプをして
 遊ぶらしかった。これ迄登勢はトルストイの小説〃アンナ・カレーニナ〃に登場する
 人物(レーヴィン)や〃戦争と平和〃子供の頃読んだ〃イワンの馬鹿〃に盛り込まれた
 宗教的な芳りに、ロシア人はクリスチャンが多いと思っていた。しかし、登勢の
 考えとは反して、ロシア人の中には、無神論者も多く、クリスマスは〃マロース〃
 というサンタクロースに似た、寒さの爺さんのお祭りだという事だった。
 クリスマス前後の日は、すぐ上の官舎でも夜遅く迄賑やかな音楽がなり、陽気に
 ダンスが続いて、よく太ったマダムが腰を振り振り踊っているのがガラス戸越しに
 見えた。登勢達のボロ官舎では、夜は早くから消燈しているので、破れた毛布で
 間に合わせたカーテンの隙間から、ロシアマダムの踊りが見え、どうも、
 子供達へ教育上思わしくないと言って、子供達を叱りつけて早く寝させるのに
 大人達は忙しかった。
二部::第10章:裸木



  十、裸木
 登勢はクリスマスが無事に過ぎたので、元自分達の住んでいた二〇二号官舎へと出かけ
て行った。空は晴れていたが、冷たい風が吹いて身を切る様な寒い日であった。繁一と
 良子に手袋をはかせ、良子を背負い、繁一にオーバーを着せて、食堂跡と向いあった
 広場の菜園を東へ通り抜けて歩いて行った。広場の砂場のブランコは二つともこわれ、
 柱木の杭が一本だけ佗しく残っているのが寒々として登勢達の眼に映った。
 広場横の菜園は、真赤なトマトを稔らせた四か月前の端正さは微塵もなく荒れ果て、
 俗に盗人草と言われる草や、芝草が枯れたまま半分は赤土に凍てっいているのだった。
 雪解水が再び凍りついている様な所をさけて枯草を踏み踏み菜園を通り抜けて石段を
 下りると、二〇二号官舎のある通りなのだった。石段を下りてそのまま東へ二〇米程行く
 と登勢達の元の住居だった。ひばり生垣の側の門を入ると繁一が嬉しそうに声をあげた。
 「此処は、僕達の家だよ!良子!。」登勢は慌てた。「今は違うのよ!。ロスキーの家
 なのよ。」良子が「キー(ロシヤ人)のとこ(住家)ね。」と言ったので登勢は黙って
 うなずいた。登勢は四か月余りの何もかもが悪夢の様に思われ、今、良子を背負い、
 頭髪をざん切にして暗幕で作った木綿の黒い上っ張り姿で勝手口に立っている自分が
 信じられぬ気がした。 さっと吹きつけた寒風に登勢は再び現実に還った。
「さあ繁一、ノックして頂戴。」
「ドヴラヤジェニー。」繁一がノックをすると、「スドラアスチェ」と応答があって、
 内から扉が開いた。クルクルと丸くて青い目をしたキューピーの様な可愛いい顔の当番兵
 が顔を出した。当番兵は登勢の顔を覚えていた。
「オー、イジスダー(こちらへいらっしゃい)。」と招じ入れられた登勢は、繁一
 と良子の手袋を脱いで、繁一のオーバーも脱がせ、暖房のきいた暖かい官舎へ入った。
 以前、夫の吉田軍医と親子四人が、まる拾か月余りを楽しく暮した家!。良子が象牙の
 箸を落し込んだ襖の穴!。繁一が新しく覚えた字を書いた壁の落書!。懐しい様々の事柄が、
 思いとなって登勢の胸に込みあげて来た。その時〃おんどる〃の部屋から背の高い
 (身長一七五糎位)のがっちりした体格の曹長と、その夫人と思われる矢張り背の高い
 (身長一七〇糎位)の色白丸顔の若い美人のマダムが現われた。
「ミニヤザヴォート、ヨシダ。」登勢が名のった。
「ミニヤザヴォート、クチヤカ。」マダムが言った。大男の曹長は、「バーシャ」当番の
 少年兵は「マルキン」と皆明るい笑顔で紹介しあった。
 部屋のペチカの火は音をたてて快く燃えていた。玄関と台所(勝手口から入って)との
 両方に通じた部屋はテーブルを置いて同居人皆の溜り場の様な役目をしていた。
 〃おんどる〃の部屋からラジオの音楽が流れて来ていた。ラジオが歌声に代った。
 登勢は聞き耳を立てた。パーシャがボリュームをあげた。それは有名なロシヤの世界的
 美声のバス歌手シャリアピンがよく歌った歌、戦前に来日した彼が歌って日本でもよく
 知られている〃ボルガの船歌〃であった。〃あ、あ、あれはー〃。クチャカアマダムの
 方を見て思わず登勢が言った。「ヴォルガリカー、シャリアピン?。」
 クチヤカア(マダム)とパーシャ(曹長)は目を輝やかし微笑しながら顔を見合わせて
 「ダー、ダー。(そうだわ、そうだわ)」「ダー。シャリアピン(そうだよ、シャリアピン)」
 と同時にうなずきながら言った。
 その時、玄関の扉が〃ガタン〃。と鳴ってカピタン(将校)が帰って来た。登勢は官舎を
 逐われた時一晩の猶予を呉れたカピタンの恩儀に対してのお礼の気持もあって
 「ドヴラヤジェー二-(今日は)。」と云って頭を下げた。横で恥かしそうにしながら
 繁一も頭を下げた。良子は何も判らずに一緒に頭をコックリとした。カピタンは
 「ばっ」と思い出した様子で登勢を見てそれから繁一を見た。そして『好い子』
 と云う風ににっこりとして頷いた。カピタンには繁一が、死んだ息子を思い出させた。
 カピタンの胸に潮が満ちる様にどっとこみ上げるものがあった。一瞬さっと頬に淋しい
 憂愁の陰が走った。カピタンは一言も云わずにくるりと踵を返すと自分の部屋
 (八帖の床付日本間)へ逃げる様に入って行った。
 カピタンは登勢親子を見るのが辛かった。自分の書斎兼寝室へと入って行くカピタン
 の後発を目で逐いながら、いぶかしげな顔をして突立っている登勢は、横から
 クチヤカア(マダム)が「イポーザーホート、ジンジャー。(彼はシンシャと云うんです)」
 と教えてくれた。
 八帖の日本間がカピタンジンジャーの部屋で、〃おんどる〃の部屋はパーシャ夫妻
 の部屋であった。曹長は最近以前から欲しがっていたラジオを手に入れたのだった。
 丁度登勢が来たのは、夫婦でそれを鳴らしている時だったのだ。登勢がシャリアピン
 を知っている事が彼を一層上機嫌にしていた。彼は嬉しそうに登勢に話しかけた。
 「トルストイを知っているか?。」
 登勢は憲兵曹長に逐い駈けられてからは、何時狼に豹変するかも知れぬソ連兵を
 信用していなかったのでマダムに向って答えた。
 「アンナカレーニナ。トルストイ。カチューシャ?」
  すると話をパーシャが引き取って、「ゴーゴリー。ドストエフスキー。ショーロフ。
 ゴーリキ。ツルゲーネフ。チェホフは?。」と矢次ぎ早やに問いかけて来た。
 ゴーリキの〃どん底〃やドストエフスキーの〃罪と罰〃等。それは登勢が少女の頃読んだ
 ものであった。けれど主人公の名前や、チェーホフの「桜の園」や「犬を連れた奥さん」
 の小説に出てくるヒロインの名前は急には登勢の頭に浮かんで来なかった。
 僅かの名詞と挨拶のロシヤ語の断片しか知らない登勢には、こみ入った話は出来なかった。
  マダムに「ブラート、カラマゾフ」「チェーホフ、ヤポンさくら」と云うと、
 「チェーホフ。さくら。チェーホフ。さくら。」とパーシャは繰返した。パーシャは
 日本の名もない一婦人でも知っている位、国際的に有名な歌手やレベルの高い文学者が
 ロシヤに沢山ある事が誇らしかった。マダムは絶えずにこにこしていた。
 パーシャは満足気にマダムの方を見ながら笑った。そして何か自分も知っている
 日本人の事を云わぬと悪いと思った。登勢の方へ向かって、「松岡ヨースケ、
 ハラシヨー(好い。偉い)。」と云った。松岡洋右(国連の軍縮会議に日本全権大使として
 出席、米(5)対日(3)の比率を日(3,5)を主張し、談判決裂を見るや席を蹴って退場。
 日本は国連を脱退した。)は、登勢の少女時代に日本が軍国主義一色に彩られよう
 としていた頃、全権大使として国際的に活躍していた人であった。バーシヤは今度は、
 「トーゴーヘイハチロー」と云って、登勢の方を見て「ヤポンハラショー。」
 と云って笑った。登勢が「東郷平八郎。ヤポン、オーチンハラショー、ロスキー、
 ニハラショー(日本には大変よくて、ロシヤには悪いわね)。」と云うと
 「ワァハッハッ」と笑って「マツオカヨースケはどうか?。」と尋ねた。
 登勢は、マダムとパーシャを等分に眺めながら「松岡洋右は、ロスキー、ヤポン、
 トーゼハラショー(ロシヤにも日本にも同じ様に良いでしょう)。」と云うと
 パーシャは気を善くして、松岡洋右ハラショー。東条英樹ニハラショー」と云った。
 登勢は突然に東条首相の名が出たので驚いたが知らぬ顔でマダムに向って今日来た
 用件を切り出した。
 「私がお勝手の隅に置いていた炒り糯粉を持って帰っても良いでしょうか?。」
 と身振り手まねを混えて云った。 マダムは訝しげな顔をして
 「マルキン、シト(何の事でしょう)。」と云いながら立ち上って台所を覗いた。
 登勢がもう一度ゼスチャーをくり返して云った。暫く考えていたマルキンが、
 台所の上げ蓋の下から糯粉の袋を持って来てくれた。
 「トイガバリイチェ、エタ(貴女が云うのはこれの事か)?。」「ダーダー(ええ)。」
 合点合点しながら登勢が背の高いクチヤカァ(マダム)を見上げる恰好で・
 「エタ.ダイチエポイジヨム、ヤ、ドーマ(これ私の住居へ持って帰っても良ろしいか?)」
 と聞くと、マダムがにっこり笑って頷いた。登勢は、「スパシーバー(有難う)。」
 と軽く会釈をして粉袋を持って部屋を出た。
 台所の流しには半分凍てついたじゃが芋があった。マルキンは台所へ来ると不器用な
 手付でじゃが芋の皮を剥き始めた。ナイフで皮を剥くと云うより切る様な調子で、
 それは全く指を切りつけそうな危なっかしい手つきであった。それを見ると登勢の
 おせっかいの虫がむくむくと首をもたげた。マルキンからナイフを借りると、
 冷たい凍り解けのじゃが芋をくるくると剥いていった。皮を剥かれた小粒の芋は、
 まるで生まれたての鼡の子の様にうすい赤味を帯びて転がった。
 じゃが芋を剥き終えた登勢は繁一に、
 「シーちゃん、もう帰ろうね、オーバを着なさい。」と帰り支度を始めた。
 マダムが、「ザフトライヂーチェ(明日もいらっしゃいね)。」と云った。
 「お仕事はあるでしょうか?。」と登勢が聞くと、マルキンが、
 「ラボート、モノーガイエズチ(沢山お仕事はあるから明日もおいでー)。」と云って
 茶目っぽく肩をすくめて笑った。登勢はロシヤ人に対して固く武装していた心が、
 マダムやマルキンの明るさに少しずつほぐれてくるのを感じた。「ダスビダニヤ。」
 「ダスビダニヤ。」勝手口から一歩戸外へ出ると思わず首をすくめる程外は寒かった。
 冷たい風が頬にも指先にも痛い程だった。
 官舎の裏手の棗の木も小梅の木も、路を距てたすぐ東側の原軍医の官舎の横にある
 ポプラの木も寒風にすっかり葉を落としていた。ポプラの裸木は天へ向って細長い
 枝を伸びるだけ伸ばしていた。厳しい風がポプラの長々とした細い梢を掠めて吹き
 すさんだ。登勢は寒風に吹かれる裸木に子供を連れた自分の姿を見る思いがした。
 小梅の裸木も花開く春を迎える日の為に若葉や花の芽を大切に抱いて強風に耐えて
 いるのだ。たった一枚の葉すら止めぬ裸木に風を受けつつも全身で耐え新しい生命の
 息吹きを育くんでいる小梅の樹!  強い感動が登勢の全身をかけめぐった。
 今日の寒さでは夜には雪となるかも知れない。雪だろうが風であろうが、決して挫けて
 はならぬのだ。いたいけな子供への愛情が新しく力となって涌いてくるのを登勢は感
 じた。良子を背負って右手に糯粉の袋をさげ、左手は小さくて冷めたい繁一の手を
 強く握りしめながら凍てついた小ジャリを踏みしめ踏みしめ登勢はぼろ官舎へと
 帰って行くのだった。
   旧二百五十部隊の家族の住む二軒一棟のぼろ官舎では年末のあわただしさもなく、
 迎春の準備もなく年は暮れた。夫人達の胸には、これから迎える寒を思っては、
 吹雪に暮れる嵐ケ丘のヒースから吹き上げる風の様に冷たい物が吹きあれていた。
 乾いた涙の谷には、生活苦と不安があった。
 小麦粉と糯米粉のだんご汁でお正月三日間の祝儀をすませた夫人達は、その日も
 帰国について取沙汰をしていた。柳沢夫人が云った。「本当に困っちゃうね。
 十月から十一月にかけて兵隊さん達は、どんどん帰国したと云うのに私達は何時
 帰れるんでしょうね。」坂元夫人が、「こんなに何度も何度もだまされて十一月中には、
 いや年の内には帰れると嘘ばっかりだものね。お正月もどうにか過ぎたけれど、
 このまま北鮮で飢え死にするのは厭ねえ。」すると鹿児島生れの橋口夫人が云った。
 「吉田さんとこは独りみたいなものだけれど、私どこは了も浩も食べ盛りだからね・
 それにソ連軍の使役に行く男の人(舟元元上等兵)に不自由させられないしね。
 生きる事が大事業なのよね。」
 家族の中にソ連軍の使役に行ける人が居ない登勢は黙って俯向いていた。
 登勢の沈んだ顔色を見て上敷領夫人が、「私達の帰国が遅れて、内地ではもう死んだ
 と思って先に帰った主人が後妻を貰っていたらどうしましょう。」
 と話題を変えて大きな目をぐるぐる廻しておどけた表情をした。坂元夫人が「そりゃー、
 どうもこうもないわ。〃長い間留守をしましてお世話をおかけ致しました。御苦労様
 でした。只今帰りましたからお引取り下さい〃といってさっさと家へ入れば好いわ」
 と云ったので、後は空虚な笑いとなった。それとなく登勢をかばってくれる上敷領夫人  や坂元夫人の友情が登勢には嬉しかった。橋口夫人は橋口少尉(獣医)との結婚が遅かった
 せいもあって、子供の年が小さい割にもう年配であった。年令は登勢達より10才上の
 36才であった。鹿児島生れの気丈な婦人であったので、登勢達には一寸煙たい
 存在であった。それに登勢の持っている衣装は、染柄や色に凝性の母が選んで作った
 だけに、色彩が鮮やかで何時も特別に高く売れた。橋口夫人や坂元夫人の衣装は、
 年令のせいもあって地味なので、ロシヤ人も地元民も余りかんげいしないで、若向の
 着物を慾しがった。河島夫人や登勢の物は洗って干してある物まで買いに来た。暮れ
 には登勢の洗い晒しの単衣のネルのねまきを85円で無理やりにも買って行ったが、
 橋口夫人の袷の大島紬は15円にしか買わなかった。大島紬の羽織と着物と両方が30円
 で卵10ケに替ったのだった。
 地元民はよく卵(タルガル)やりんご(ヤヴオツカーヌング)を持って「パッカウ(交替)
 パッカウ。」と云って来ては商売をして帰って行った。
 鹿児島生れの橋口夫人はお風呂の順番も特別にうるさかった。最初にお風呂に入るのは
 男性の最年長者樗木から舟元、小吉上等兵と云った順で男達が全員終ってから夫人達
 が入るのだった。同じ棟の東側のぼろ官舎では、西側のぼろ官舎の男尊女卑と違って
 男女同権で揉めていた。東側官舎の芦田夫人と寺本中隊長夫人は、どちらも子供がなく、
 男の人の人数の足りぬ町は、ソ連軍の洗濯場へ行ったり炭坑へ行ったり使役に行く事が
 多かった。仕事から帰って来た芦田夫人と寺本夫人は足や腰が冷えて寒いので
 早くお湯に入りたいと思った。 芦田夫人は、以前、左褄をとって売れっ子であった
 のを、芦田中尉が、本妻(船場の御寮さんで子供が多い)の代りに北群へ呼んだ人で
 あった。美しい顔立ちであったが、勝気さと誰にも負けまいという気負いが、
 顔に現われて眼元に一寸剣があった。「どうしましょう。男の人達が三人人って
 居られますわ。」と言って尻ごみする寺本夫人を、
 「何も遠慮する事はありまへんでっしゃろう。早ようお風呂に入りまほう。」
 と強引に誘った芦田夫人は、「かましまへんでっしゃろ。」と浴場の戸を開けた。
 「あつ!。入浴中の岸上、中塚、飯田の三人の伍長は驚いた。
 「一緒に、お風呂に入らせて貰いまっせ。御免します。と云って、いきなり
 浴場へ素裸体の二人の夫人に入って来られたのである。
 肌と肌が触れ合わぬのが不思議な程の狭い浴場に混浴は無理であった。
 二人の女性は、とにもかくにも、元上官の夫人なのである。いまいましくはあったが、
 三人の伍長は、そうそうにお風呂から飛び出したのだった。しかし西側の官舎には、
 そんな勇敢な夫人は居なかった。
 柳沢夫人も登勢も、終り風呂の方が、ゆっくり出来て好きだった。
 物置小屋のトタン屋根の軒には、20・程のつららが、下りっぱなしで短い日なのに、
 一日がまるで牛の歩みの様にゆっくりと過ぎてゆく成日の夕方だった。
 坂元の清と一緒に外で遊んでいた繁一が表から駈けこんで来た。
 「清君のお兄さんが、今、ロスキーの処で大きなパン一本(三斤を貰って来られたよ。
 お美味しそうなパンだよ。今に僕が坂元君のお兄さん位に大きくなってロスキーの
 ところへ当番に行って大きなパンを貰って来るからね。お母ちゃん。何も心配しなくて
 も好いよ!。」「えつ何?。」と云ったま、登勢は言葉が出て来なかった。
 横に居た柳沢夫人が「まあ!坊やがそんなに大きくなる迄こんな処に居るのは大変だわ。
」  幸子も驚いて編物(配給の軍の毛糸の防寒シャツをほどいて糸を作って2本取で編んでいた)
 の手を止めて微笑した。登勢は笑えなかった。繁一がいじらしくて、溢れそうになる
 涙をこらえて、「繁一ちゃん、母さん何も心配していないよ。
 食物を買うお金もまだ沢山あるし、子供は心配しなくてもいいのよ。」
 と云って良子と繁一の手を取った。
 この小さくて柔らかい手でパンを稼ぐ為に、ソ連兵の当番に行こうという息子。
 「ねえ、心配しなくてももうすぐ帰れるのよ。お兄ちゃんと良子も一緒に帰りましょう」
 と半分歌にして二人の子供の手を揺さぶった。
 柳沢夫人が「繁一ちゃん、おうどんを作っちゃおうよ。〃上州名物嬶天下に空っ風。
 うどん作れぬ半人前〃と云うのよ。」と云ってうどん作りを始めた。
 「貰うのも悪いから教えて貰って私も作りますわ。」と登勢もまねて、うどんを作った
 が短く切れてしまって、柳沢夫人の2分の一位の長さで色の黒いメリケン粉で作った
 うどんはまるで、〃どじょう〃の様な恰好の半人前のうどんが出来上った。
 同じ黒い粉でも〃うどん作りはお嫁入りの資格の一つだ〃という柳沢夫人は、
 さすがに上手であった。夫人の郷里は群馬県で国定忠治で有名な赤城山のある上州
 なのだ。柳沢夫人の作ったうどんを食べながら栄子が「お母さんまるで太ったおそば
 の様なおうどんね。」というと繁一が、「僕とこは〃どじょう〃なんだよ。」
 と言ったので、大笑いになって賑やかにどじょう汁の様なうどんを食べた。
 うどんの夕食が終った後で柳沢夫人が、「樗木さん!!何か善い事があったのですか?」
 と云うと幸子も、「本当に小父さん何か嬉しそうね。」と云った。
 登勢も樗木の方を見ると全で含み笑いをしている様に頬の筋肉が何となくゆるんで
 いた。皆に見つめられて樗木は少し照れた顔になって、
 「いやー別に何と云う程の事では無いのですが-。今日以前の電気会社の友達のところ
 へ寄って来ましたのでね。その友達は極秘で短波のラジオをかくし持っているのです。
 そこで情報を少し聞いて来ました。」と云って声をひそめた。
 すべての情報から完全に閉め出されている登勢達は息を殺して次の言葉を待った。
 「誰にも云わないっもりだったのですが、実は昨年の十一月から支那では革命が起きて
 ソ連国境の辺で戦争が起こり、又十二月末には、鴨緑江をはさんで小さないざこざも
 あったらしいです。ソ連側も国境警備の為、軍の移動等で忙がしく、日本人抑留者の
 我々の事などかまって居れなかったらしいです。けれど革命軍が勝って満州の方へ
 戦地が移動して国境は平穏を取り戻した由です。東南アジアでもラオスやあちこちで
 内戦が起きているそうです。自分達は紀元節二月十一日の頃には還れるのと違いますか?。
 でも相手がロシヤの事、だから何とも言えないですが-。」
 故国日本へ還れる!!。その思いに柳沢夫人も登勢も自然に顔がほころんだ。
 柳沢の坊やと良子は訳も判らないのにはしゃいで部屋の中を走り廻りはじめた。
第11章へ
二部::第11章:夢幻



  十一、夢幻(新雪)
 空っ風が吹いて雪の少ない秋乙にも年が変ってからは度々雪が降った。内地の雪は
花弁の散る様に、冷たくてもアイスクリームに似て初恋の甘さを含んで舞いながら
落ちるのに、秋乙の雪は悲哀が苦汁となって凝固した様だった。雪は積もったり、
消えたりしながらも凍った。積もった雪も雪だるまを作ろうと丸めて転がしてみても
くっつかないので、手で圧しかためるしか無いのだった。内地の雪にはふうわりと
した柔らかい真綿の様な優しさがあるのに、北鮮秋乙の雪は冷たく酷しく、夢幻を
擁する情緒にも欠けていた。内地の白梅紅梅の古木に亦土塀や門かつぎの松に綿を
のせた感じに積もる雪では無かった。氷を削った様な雪は赤土を剥出した禿山に
ふさわしい雪であった。降り積もった雪を見ても、何を一つ見ても無闇に日本が
懐かしかった。登勢は大声をあげて「お母さん!!」と泣きたい衝動に一生懸命
耐えていた。
 登勢等親子三人には凍った雪を踏みつけながら、二百二号官舎へと通うのがいつとなく
日課の様になっていた。そこでは登勢は先住者の「ドクトルマダム吉田奥さん!」
であったし、繁一は愛称(シシャン)良子は愛称(リョウシャン)であった。快い音楽の
 流れる暖房のよく利いた官舎で登勢は働くのが楽しかった。
 クチャカーマダムは外人特有の舌足らずの呼び方で「リョウシャン」「リヨウシャン」
 と良子を可愛がって呉れた。
 マルキンやバーシヤ曹長は繁一をとても可愛がってくれた。
 そこには人種の差別も戦勝国、敗戦国の区別も無かった。あるのはほのぼのとした
 暖かい人間同士の友情であった。
 進駐当時の汗くさい飢えた狼はもうそこには居なかった。そこに居るのは唯人情厚い
 素朴な人達であった。
 良子と繁一が可愛がられる事が登勢にとっては何より嬉しい事であった。繁一は僅か
 七冊の、自分の持っている全部の絵本(童話も)を何時も袋に入れて提げ歩いていた。
 そして殆ど空んじてしまっている絵本や童話を何度も繰り返しては読んでいた。
 良子はおとなしい児で静かに繁一の読む本を聞いていた。
 五才と二才の三つ違いの兄と妹は、或時には、近しい骨肉として、又或時は幼い親友
 同士として信頼と愛を寄せあっていた。何時も小犬がじゃれる様に一緒にころころと
 遊んでいるのだった。その傍で掃除や洗濯をする事は登勢を非常に元気づけてくれた。
 働くことがともすれは沈み勝ちな気持を明るくひき立てるのに効力があった。
 登勢は報酬はどうでも良かった。寒々として生活苦の匂いのするぼろ官舎の一室で、
 じっと虚しさに耐えて居るよりも、子供がのびのびとして親子三人が明るい気分で
 時間を過ごせる事が得がたい仕事の代償であった。
 楽しそうに仕事をする登勢に向って、マダムクチヤカア准尉は何度も云うのだった。
 「奥さん!!妊娠中の大切な体だから仕事をして呉れるのは良いが、重い物を持ったり、
 無理をせぬ様にね。」
 登勢は「ス。ハシーバー(有難う)」との一言しか言葉を知らなかった。
 登勢がペチカの掃除をすると燃えがらや、マセツク(絶無煙の大き目の豆炭で暑い夏の日、
 汗水をたらして小屋へ運んだ物)等、重い物は全部マルキンが運んで呉れた。洗濯をする
 時はお湯を沸かすのに、マルキンが燃料をどしどしほりこんでお風呂の湯をどんどん
 沸かして呉れた。洗い終った洗濯物は四斗樽に入れて置くと戸外ヘマルキンが運ぶのだった。
 綱を雪の積もった戸外に引き渡すのもマルキンの仕事で、洗濯物を干すのは登勢の仕事
 だった。登勢はまるで当番兵の付添がついた掃除兼洗濯婦であった。
 その日、登勢が仕事を終えて帰ろうとしていると「ドラースチ、クチヤカー。」
 よく透る声がしてマダムターニャが活溌な足どりで入って来た。軍医準医マダムター
ニャは、クチャカマダムの同輩であった。ターニャは登勢を見ると、「日本が戦争に
負けて奥さん苦労をしますね。ロシヤがゲルマン(ドイツ)に攻められた時は、ロシヤ
 でも食べ物がなく、パパが木を削ってそれを食べて私達も露命をつなぎました。
 戦争があれば女は苦労します。
 日本奥さんもロシヤマダムも戦争は大嫌いです。戦争で困らないのはアメリカマダム
 だけです。『日本奥さん。ロシヤマダム。戦争反対です』熱心な口調で身振り手振りを
 混えて一息に云った。そこまでは良かったが後が悪かった。クチヤカアの横に居た良子を
 抱き上げると云った。「吉田奥さんはもうすぐ赤ちゃんが生れるから、このドーチカ
 (女の子)一人売って貰えないかしら?。お金が要るでしょうから沢山お金を払うから。」
 言葉は判らなくても気配で察したのか、「駄目、あかん!。」絵本を入れた袋を放して
 とんできた繁一は、顔色を変え、ターニャを睨んで不安そうにつっ立った。
 繁一のけんまくに良子を下ろしてターニャは、一心に云った。
 「クチヤカーは五月にエレビョーニカ(赤ちゃん)が生まれるし、吉田奥さんはもうすぐ生ま
 れるし、私も子供が欲しいわ。女の子がほしい!。」
 登勢は驚きで言葉が出て来なかったが、急いで良子を抱いて、「ニエト、ニエト(駄目駄目)」
 と頭を横に振った。クチヤカー准尉もあわてて、「そんな無茶を云うものではないターニャ。
 パジヤルスター(済みません)奥さん!。」 と間を取りもってくれた。ターニャが少し
 しよんぼりして照れ笑いをしたので、登勢も繁一の頭を撫でながらほっとした。
 帰りの道で広場の雪をふみながら、繁一は念をおすように、「お母ちゃん。良子はロスキー
 にあげないね。」と云った
。  登勢は「ああ。誰にもあげないよ。皆で一緒に内地へ帰ろうね。」
 と返事をしたもの、ソ連側からは何の通達もなく依然として何時頃に帰れるか全然当は
 ないのだった。 引越にしてもすべて突然に発令され、まるで突風に吹き荒らされる様に
 官舎を出るのであってみれば、今更その遣口に変りがある筈もなく、ソ連側の考えなど、
 名探偵シャーロックホームズにも解けない謎であった。??。「吉田さん!。お元気?」
 美しい声が聞え、我に返った登勢が顔を上げると、栗原小巻に似た容姿の天野砲隊軍医
 原大尉の夫人が五米程前方に立っていた。
 「ええ、お蔭で-。」原夫人の官舎は二〇二号官舎と道を挟んで東側であった。
 すぐ北上がソ連の憲兵隊長の官舎のせいか、憲兵隊長を敬遠して引越もなく四世帯同居で
 静かに暮しているのだった。
 地元民もおそれて余り物売りに来ないので、原夫人はその日卵を買いに少し先の道路まで
 出向いた帰りであった。
 彼女は育ちの良さから来たこだわりの無さと、登勢とは同県人と云う親しさもあって、
 登勢がぼろ官舎へ移る以前は良く行ったり来たりしていたのだった。地元民にふとん袋
 を持ち逃げされた登勢は、原夫人に掛ふとんを一枚借りていた。酷寒の北鮮の冬には一枚
 の掛ふとんでも登勢親子がどんなに暖かく包まれている事か!。
 登勢はふとんの暖かさ以上に原夫人の友情の暖かさに感謝していた。
 原夫人は兵庫県の神戸女学院出身の才媛であった。彼女にも繁一位の坊や(公一)と
 一才を過ぎた女児(明子)があった。
 「何か良いお話有ります?。」という原夫人の問いに登勢は黙って静かに首を横に振った。
 原夫人は登勢のお腹に目をおとして、「奥さん、無理をしては駄目よ。」
 「え、有難う。」大寒に入って内地でも寒い季節なのだ。割合に暖かい日だったが、
 晴れやらぬ曇り空から思い出した様に強い風が吹きまくった。
  〃お互いに体に気をつけて元気で子供を連れて帰りましょうね〃
 そんな思いが云わず語らずに合言葉の様に、原夫人と登勢の胸の中を往復した。
 「じや!」 「子供二人に留守させてますので……。」 「さようなら。」
 「さようなら。」 折からの風が積雪を吹き上げて雪を散らした。雪は散りながら、
 別れて帰って行く原夫人と登勢親子を包んだ。
 その夜原夫人は女学生の頃の夢を見ていた。それは長閑な春であった。
   彼女の母校神戸女学院は西宮市岡田山にあった。自然を活かして美しく整備された小さな
 岡の様な山は、松の木や山椿やつつじ、すみれ草迄が優雅な調和をみせていた。
 山上の校舎と校舎をつなぐ道の両側の桜並木には、折しも満開の染井吉野が欄漫と
 咲いていた。テニスコートでラケットを持った友人と話していた原夫人が、
 ふと見るとコートの横の広々と広がった芝生の向う側に、子供を連れた登勢が大きな
 お腹を抱えて細っそりとした撫肩を落し、悲しそうに立っているのが眼にうつった。
 原夫人が駈けて行こうとすると登勢は、芝生から桜並木へ子供の手を引いてさっさと
 歩いて行くのだった。
 登勢達親子の上に桜花が散りかかって、花弁が落花の吹雪と舞った。
 見る見るうちにそれが本物の冷たい真白な雪となって登勢達にふりかかって行った。
 「吉田さん!」 原夫人は呼ぼうとして目が覚めた。すると女学院の桜花も、広々と
 した芝生も一瞬に消えて、身を横たえているのは殺風景な北鮮の官舎の一室であった。
 二人の子供の母を信じ切った安らかな寝息が原夫人の胸に迫って来た。
 ぽろりぽろりと大粒の涙が静かに夜着を濡らして行くなかで、夫人は出産をひかえた
 登勢の事を考えた。
 〃吉田さんとこは今からもう一人歩ちゃんを生まねばならぬのだ。三人を連れて…。
 内地は遠い〃 登勢の事を思えば原夫人は涙の中から勇気が湧いて来るのだった。
 登勢もその夜夢を見ていた。〃どうかして早く内地へ帰りたい。お産迄に帰りたい。〃
 という思いの為か、それとも佐々木の逃亡の事が頭にある為か、山道を繁一の手を
 引いて良子を背に、黙々と歩いていた。突然!何処からか「ソ連側との引揚交渉が
 挫折した。駄目だ。引返せ!。引揚は未だ早いと言うモロトフ外相の命令だ!。
 ここから引返すのだ!。」と言う声が聞こえて来て、元の食堂舎(燃料にする為に取り
 壊した。)前の広場から山の暗い洞窟(戦時中の防空壕)へと引返して歩き続けていた。
 〃如何しても内地へ還らねば。〃と夢の中で登勢は思っていた。そして「良子は
 ロスキーにあげないよ。皆で一緒に内地へ帰ろうね。」と言いながら只管薄暗い道
 を歩いていた。そのうち何時の間にか夢は消え深い眠りにおちていったらしく、
 翌朝登勢が眼を覚ました時には、もう朝日が射していた。
 夜中からしんしんと降り続いていた雪は二十センチ程積んでもう降り止んでいた。
 積った雪が朝日を反射して眩しく輝いているのを見ると、登勢は昨年の樹氷を思い
 出した。昨年(昭和二十年)の大寒は異常な寒波が秋乙を襲って登勢の居た二〇二号
 官舎の樹木も度々美しい樹氷をつけたものだった。
 小梅の裸木が震える様な寒さの中で、枝一杯に樹氷をつけて、射し昇る朝日にダイヤ
 モンドの様に輝くのを、夫と一緒に眺めた日の感激が新しく登勢に甦えって来た。
 樹氷は丸でこの世のものとも思われぬ程美しく、キラキラと輝いていて、それは束の
 間の夢幻の世界であった。
 それにつけても夫の吉田元軍医大尉は、末だ三合里の廠舎に居るのだろうか??。
  〃内地帰還〃という日本人の誰もが飛びつく名目で、健康な将兵達から順番に
 三合里を出発したと云う事だから、三合軍廠舎の医務診療所で、残留兵士や病兵の
 治療に当って居るのだろうか?。ボロ官舎の夫人達には夫達の居所も消息も、何も
 かも一切が判らず、全然雲をつかむ様で知る方法とてないのだった。
 「今頃は半七さん。何処に如何してござろうに?。」そんな浄瑠璃の言葉の一節が、
 登勢の胸の中で鳴門の渦潮の様に渦巻いていた。
 その頃、登勢の夫吉田軍医大尉は、同僚の土井軍医大尉と厳しい寒さの三合里廠舎
 で診療の責任者として多忙を極めていた。一人でも多くの同胞の命を助けんものと
 一心に働いていた。衛生設備の行き渡らぬ廠舎。ソ連側の行き届かぬ衛生管理。
 不足と言うにも余りにも少な過ぎる食糧。容易に手に入らない医薬品。何一つと満足
 にゆかぬ悪条件の中で、彼の人間愛が、医者としての魂が、彼を仕事に治療に看護
 にと駈りたてていた。食塩注射に使う食塩水も水を蒸溜して作らねばならない現状
 であった。
 昨年の秋(昭和二十年十月頃)毎日のように、千人二千人と隊を組んで、〃お先に内地
 へ還ります〃と出発して往った将校、下士官、兵士達を内地へ還すと言うのは、
 口実で、遠くはハバロフスク、ナホトカ、近くは鎮南浦と各地の収容所に送られて
 行ったのだが…。懐かしい父母の居る内地、愛しい妻子の待つ内地、故国の灯が暖か
 く彼等の胸に点っていて、内地帰還を信じ、喜び勇んで出発した彼等であったが……。
 『内地帰還』が夢幻と消えさり、異国の土と化した将兵の数は余りにも多い。
 (注)これは後程聞いた話であるが。 (各収容所で使役に従事している間に、コレラ、
 チフスに罹り八ケ月後に再び三合里へと送還された者も沢山あった。昭和二十一年
 六月頃には、コレラ、チフスに加えて極度の栄養失調で、身動き一つ出来ぬ患者が増え、
 手のほどこし様もなく、三合里でも次々と死者が出て、日に百二十名を越える将兵が
 冥途へ旅立つと言う悲惨な事実もあった。)
 登勢達のぼろ官舎では、玄関の扉が壊われているので、板を打ちつけて開かぬように
 してあった。玄関の土間は食物の倉庫の代わりに使用して、西側の勝手口が出入口と
 して使われていた。勝手口を出た右手に小さなテントを張って、かまどを築き、共同
 炊飯をする様に作ってあった。
 登勢達が夕方勝手口を出て、遥か西の方を見ると、何処から現われるのか判らないが、
 百を越えると思われる程のおびただしい数の烏が毎日現われて、空に群れ飛ぶのが
 見えた。登勢にはそれが、異国の地で倒れた人々の魂が烏に姿をかりて空を舞って
 いる様な不吉な錯覚を起こさせた。夢幻と消え去った帰国を、実現する為に烏になって
 大空を飛んでいるのではなかろうか?。同じ様に空を見上げていた柳沢夫人が、
 「ねえ、あの黒い鳥は烏でしょう。何かと思う程随分沢山ねえ。百羽は居るでしょう。
 何だか気味が悪いわ。内地へ帰ると言って出て行った兵隊さん達、本当に帰っちゃった
 かな。まさか途中で倒れちゃったんでは無かろうね。」
 「あら!。私も同じ事を思ったわ。」上敷領夫人が横から言った。
 宵闇の迫ってくる薄墨色の空の彼方へ全部の鳥が姿を消すのを眺めながら夫人達の
 思いは同じく、何を見ても唯遣瀬無かった。
 共同炊飯の遅い朝食が済んで、登勢が朝の片付けを終えると、良子がもう自分の
 オーバと手袋、おんぶ紐を持って、「母ちゃん、キー(ロスキー)とこへ行こうねえ。」
 と言う。けれど朝は道が滑るので、登勢達が出かけるのは大抵十時頃になった。
 登勢はその日、いつもより遅く、お昼過ぎに良子と繁一を連れて、二百二号官舎
 へ行った。途中の広場も久し振りに雪が消えて、残雪が日陰の処々に冷たく溜った
 様に見えた。一月も後残り少なく、引揚の期日も判らぬままに出産の日を迎えねば
 ならぬ不安を目前にひかえて、何か苛立たしい悲しみが彼女を包んでいた。
 二百二号官舎の門を入ると、ねんねこの上から吹きつける冷たい風に、肩をすぼめ
 ながら裏手のお庭へ廻った。
 登勢は一年前の今頃!。朝の厳しい冷え込みに、氷細工の様な樹氷を度々つけて、
 宝石の様に輝いていた小梅の樹を見たいと思った。小梅の樹が懐かしかった。
 樹氷は瞬時にして消えるが故に、夢幻の果敢なさを持っていた。樹氷を装った
 美しい小梅の樹を、最初に教えてくれた夫の消息が全然判らない今、小梅の樹を
 眺める事はせめてもの登勢の慰めであった。しかし裏庭にある筈の小梅の裸木も、
 そこにはもう見当らなかった。樹木らしい物は何一つなく、畑すら荒れ果てて、
 枯草を吹く北風の去来だけがあった。〃一体如何した事だろうか?〃夢幻の様に樹木
 の消え去った佗しい庭の風景が、刻々として彼女の胸に迫って来た。吹き抜けて行く
 風と共に、思い出の一こまが散って行った。
 物置のマセツク炭を、取りに出て来たマルキンが、寒空に佇んでいる登勢を見つけた。
 「シトオ、スインドーチ、ホロドノー、イッチドーマ・・・。」(如何したの?子供達
 が寒いから家へ入っておいで…)と丸い青い瞳をくるくるさせながら、キューピー
 の様な顔をして言った。 登勢はそれには答えずに、「マーリンキイスリーバ、
 ニエト。」(小梅の樹が無くなっているわ。)と首を横に振った。マルキンは、
 いたずらっぽく首をすくめ、おんどるの煙突を指差して、「スリーバニエト、
 イッチダウァイ。(梅の木はあそこから消えて無くなった)!。」
 と涼しい顔をして笑った。その無邪気さにおされて、登勢は返す言葉もなく、
 もくもくと白い煙を吐いている煙突を見上げた。梅の樹は「炎きつけ」として煙に
 化けて消えてしまったのだ。とんだ「鉢の木」である。佐野源左工門常世の心の痛み
 など、マルキンには程遠い事である。
 登勢は国民性の違いを感じた。人間程その環境に支配され易いものは無い。広大な
 森林と領土を持つロシヤ人には、樹木は育てるものではなく、伐採して使う物なのだ。
 資源の少ない小さな島国に生れて育った日本人が、生きて生活して行くのには、工夫
 と勤勉は欠く事の出来ぬ必須条件で、山には植林、畑には耕作がつきもので、
 植木を愛する事も生活の一部分なのだが、ロシヤ人にはその必要はない事なのだ。
 -------と官舎の向うに見える禿山を眺めながら登勢は思うのだった。
 空襲と度重なる爆撃で、瓦礫の荒地と化しているかも知れぬ日本!。十年間は生物は
 おろか草木さえも生えぬ不毛の地になったと言う広島や長崎!。けれども彼女の瞼に
 浮ぶのは、鮎の泳ぐ清流揖保川!。紅葉美しい最上公園、千年藤で賑う藤祭り、四季
 の移り変りに伴って、綿々として情緒のある故郷の風物であった。登勢は秋乙とは
 月とすっぼんだ-と思い、「ホロドナ、オオチンホロドノー。(寒い大寒い)。」
 と言うマルキンの後から苦笑しながら官舎へ入って行った。
 掃除をすませて登勢が後片付けをしていると、クチャカアマダムが勝手口から帰って
 来た。暫くすると、ジープの音が門前で止った。パーシャの賑かな声がして、
 マルキンが呼ばれて玄関から飛出して行った。まもなくジンジャーとパーシャと
 マルキンが、一箱ずつ乾パンの箱を担いで玄関から入って来た。
 パーシャは肩にのせたまま、乾パンの箱をおんどるの部屋へ運んで、早速木箱を
 開いた中味は戦時中一戸に一袋-二箱の配給で、二回程貰った事のある乾パンである。
 これは元日本軍の食糧廠から接収したソ連軍の戦利品と言う訳の物だ。と登勢が思い
 ながら眺めていると、マダムが乾パンの袋を取り出して、「シトーエタ?パヤポン
 スキー。(これは何と言うのです?)。」と尋ねた。登勢が「乾パン」と答えると
 パーシャが後を引きとって、「乾パン」「乾パン」と繰り返した。
 乾パンの布袋をクチャカアマダムが開けた。中から乾パンと一緒に、ころころと五色
 の金平糖が転がり出て来た。
 「金平糖?」と登勢が思わず声を出した。美しい緑や赤の可愛いい色彩や形に、
 良子と繁一が眼をかがやかせて喜んだ。マダムは金平糖をつまみあげて、「シトーエタ?
 (これは何と言うの?)。」とまた登勢に尋ねた。登勢がにこにこしながら、「金平糖」
 と答えると繁一が横から一緒に、「金平糖」と言った。マダムは乾パンの袋から金平糖
 を選り出して、「トシシャン。ルリシャン。コンペイト。」と手渡して、金平糖を良子
 の掌と繁一の掌に乗せた。クチャカーは金平糖が珍らしかった。口に入れると甘いサハロ
 (砂糖)の味が広がって、目前に居る小柄な吉田奥さんの国!日本のお菓子が、未だ
 見たことのない日本を思わせていた。笑顔で「コンペイト」「コンペイト」と
 楽しそうに繰返すクチャカアの言葉を聞きながら、登勢は娘の頃、故郷の最上山の楓山
 で茶箱の振出しから、金平糖をころばせた野点ての茶席を思い出していた。楽しかった
 娘時代!。あの友。この友。誰の消息も今は知る由もない。
 登勢が廊下で帰り支度をしていると、シンシヤーが部屋から出て来た。彼はパーシャ
 とクチヤカアに何か言った。登勢の方を見ながら、クチヤカアが笑顔で返事をした。
 良子をおんぶしてねんねこを羽織り、すつかり帰り支度をした登勢に近づいて、
 シンシヤーは未だ封を切らない乾パンの箱を指差し、持って帰る様にと言った。
 登勢は思いがけぬ言葉に驚いて、シンシヤーを見た。バーシヤと違って平素余り打ち
 とけて話をした事も無い、むっつりと部屋にこもっているシンシヤ--が、彼女に一箱
 全部乾パン(六十袋入)を呉れると言う。シンシヤーの真意を計りかねて、お礼の言葉
 も出て来ないまま、登勢はこのトルコ系と思われる色の浅黒い小柄なロシヤ人の黒髪に
 黒い瞳をしたカピタンを当惑げに見つめた。シンシヤーは登勢の当惑は重くて大きな
 木箱を持ち運べない為の心配だろうと思った。マルキンに向って乾パンの木箱を持って
 登勢達を送って行く様にと言いつけて繁一を見ながら再び登勢に言った。
 「エタバームマーリンキー。ナイドーマイジョー……。(これを君の子供にあげる
 家へ持って帰ってやりなさい)」子供にと言う言葉に救われた登勢は急に嬉しくなった。
 シンシヤーの繁一を見る眸は優しさに溢れ潤いさえ、帯び、亡き息子を繁一の中に
 見ている様であった。登勢が慌てて、「スパシーバ(有難う)」と言うと繁一も横から
 「スパシーバー」と言った。始終にこにこしながら見ているパーシャの方をちらっと
 見て、シンシヤーは照れた様にそそくさと自分の部屋にしている座敷へと入って行った。
 登勢がクチャカやパーシャにも「スパシーバ」と礼を言うと、背中の良子が「シーバ」
 と言った。「ダスビタニヤ(さよなら)」と言うと良子が「ダスビダー」と又まねをした。
 四時間程前に悲しみに圧しつぶされそうな心で通った道を、帰りは意気揚々と、
 大きな乾パンの木箱を荷担ったマルキンに送られてぼろ官舎へ帰り着いた。
 金平糖は入っていなかったが、官舎の夫人達にも配り乾パンは当分の間夕食の代用
 として空腹を満たして呉れた。 登勢がカピタン、シンシヤーから貰った乾パンは、
 胃袋だけでなく、心まで満たして呉れた。木箱ごと貰った六〇袋の乾パンは、
 神の御恵と彼女には思われた。急に長者になった様な豊かな心で床についた。
 その夜の夢は楽しかった。神の恩寵に守られ、登勢は内地へ還った夢を見ていた。
 彼女が渡鮮前に住んでいた家に皆集っていた。家は舅名義の家で、表は南北の通りに
 面しているのだが、家の前で東側と西側に道が別れていた。道は別れたまま矢張り
 南北に走っているので、分岐点に道分稲荷の鳥居と小さな社が建っていた。
 家は通りの西側に位置して、東向に板垣と門があった。稲荷の鳥居を狭んだ同側の
 通りに、造り酒屋の大きな倉があった。玄関を入って東向の縁側に続く三部屋の、
 南も北も隣家と接している為に、少し光線が不充分であった。その為か皆の顔が
 ぼやけて見えるのだが、夫の吉田軍医の亡父(生前何事につけても彼女を庇ってくれて
 いた死んだ舅)も元気で温く登勢を迎えてくれた。東京に住んでいる筈の妹の紀代も
 空襲を逃がれて、その場に居た。 姑は可愛いい孫の繁一の頭を撫でながら、
 「シーちゃん。よく還った!。よく還った!。」と言って、金平糖を手渡している。
 登勢は「六〇袋も乾パンを貰ったのよ。」と皆に乾パンの袋を配りながら、里の母の
 顔が見えないのが物足りなかった。玄関に里の母らしい人影がした。けれど人影は
 なかなか入って来ないので、「早く、お母さん此方へ入って来て頂戴。」と言おう
 として目が覚めた。 〃ああ、此処はまだ日本内地では無い!。内地帰還は矢張り
 夢なのだ。お母さんに今少しで会えたのに、夢は破れた。〃と思った途端、
 急に激しい悲しみが登勢を襲って来た。夢の中でも良いから母に会いたかった。
 夢が楽しかっただけに、悲しみは二乗されていた。内地へ還りたい。出産迄に帰り
 たいと言う願いも夢幻と消え去った事を、登勢はひしひしと感じた。声をしのんで
 泣く登勢の頬を、滂沱と涙が流れ、枕を冷たく濡らすのだった。ぼろ官舎の窓辺
 にむせび音を立てながら、木枯しは吹き過ぎて行った。
二部::第12章:新月



  十二、新月
 暖かい日が続いた後、寒さが又戻って、旧正月の新月の日が近づいていた。寒さの
 為か下腹部が硬く固まって、出産の日が予定日(二月中旬)より早く近づいている事を、
 登勢は母性本能で感じた。彼女は思った。〃優しい母や姑に見守られながら産んだ
 繁一や良子の時とは違って、独りでお産を済まさねばならないのだ。胎盤癒着などに
 よる多量出血を起こした場合死に直行する事も考えられるが、どんな事があっても、
 無事にお産を済まさねばならない。私が死ねば誰が子供達を内地へ連れて帰って
 呉れるだろう?。いや生命の保証すら出来ないのだ。
 私は死んでも死ねない立場なのだ。
 彼女は上田秋成の雨月物語の説話や、子供の頃に幼な友達の辰ちゃんや房ちゃんと
 一緒に、怖ごわ聞いた子育て幽霊の伝説を思い出していた。
 昔、それは寒い或晩の事であった。少し早仕舞に飴屋が表戸を下して、戸閉りをして
 いると、ごとごとと飴屋の表戸が鳴った。耳をすますと、「今晩は!、水飴を一文で
 売って下さい。」地の底から出て来た様な、絶え入る様な声がした。飴屋の主人が
 出てみると、青白い顔の痩せ細った若い女が、白い着物を着て表に立っていた。
 女はまるで体中から冷気を出している様で、あたりに冷たい風が漂っていた。
 飴屋は薄気味悪く、背筋がゾーとする様な思いで、多い目の水飴を大急ぎで渡した。
 女は嬉しそうに「有難う御座居ます。」と丁寧に頭を下げて帰って行った。翌晩も
 翌々晩もその若い女は飴を買いに来た。しかし、若い女は一日一日と弱々しく、衰え
 て行く様に見えた。六晩目の夜、女は悲しそうに、「有難う御座いました。もうお金が
 ありません。」と冷たい一文銭を置いて飴屋を出た。その様子が哀れで、以前より
 不審に思っていた飴屋が後をつけて行くと、女の姿は墓地に消えた。消えたあたりで、
 元気な赤ん坊の泣き声がしていた。登勢の郷里播州では、冥途の路銀(三途の川の渡し
 賃等)として、一文銭六個を紐に通して棺桶に入れる仕来りがあった。死後に出産した
 若い女は、冥途の路銀で水飴を買って赤ん坊を育てていたのである。〃私は絶対に
 死ねない!。いや、死なない!。内地へ子供達を連れ還る迄は死んでも死ねない。〃
 と登勢は、心の中で絶叫していた。そして出産までに炊事当番の責任も産後の分迄
 果しておきたいと思った。 その頃、共同炊事当番は二人ずつ組んで、翌朝一日分の
 御飯を炊く準備をする事になっていた。朝火を燃して炊けた御飯のお釜を下すのは
 男の人の役だった。官舎全員の一日分(三升の米)は多くはないがお米と水を入れた
 大きな釜の上げ下しは、相当力が要る仕事であった。けれど登勢は独りで二日続けて
 当番をしようと思った。
 幼い頃はひ弱い泣虫の子供であった登勢であるが、結婚後大家族の中で、大瓶に水を
 運ぶ仕事や、四斗樽の漬物石の上げ下し、大家族の三度の食事のお釜の上げ下し、
 戦時中の空地利用にした事もない畑仕事や、かます縫いの勤労奉仕等、様々の労役や
 困難が種々の意味で、彼女を逞しく鍛えていた。腕も太くなり、小柄な体に似合わず
力も強くなっていた。幼稚園ばかりでなく、小学校へ入学しても、附添なしでは通学
出来ない弱虫の甘えたの幼女の頃の面影はもう微塵も無くなっていた。
 上敷領夫人や河島夫人の「奥さん、無理をしないで、重い物は男の人に持って貰う
 のよ。」と言う言葉や、「代りに重い物は持ってあげるから遠慮しなくていいですよ。」
 と言う小吉元上等兵の親切な言葉を、無理に退けて、独りで炊事当番に取り組んだ。
 初めにお釜を洗ってかまどに乗せ、洗いあげたお米を入れ、最後に分量の水を入れる
 様にして重量を手加減しながら仕事は順調に進み、第一日目の当番は無事に終った。
 登勢が仕事を終ったかすかな安らぎと共に、ふと見上げた西空には、三日月よりも細い
 糸の様な新月があった。昏れなずむ空に懸った赤味を帯びた黄金色の新月は、神秘的
 に輝いて登勢の胸に促々として敬虔の念をもたらした。不運の武将、山中鹿之助が
 「憂き事のなおこの上につもれかし、限りある身の力試さん」と三日月に祈った話は、
 余りにも有名であるが、登勢は静かにお産の無事を新月に祈らずには居られなかった。
 その翌日の第二日目の夕方、お腹が何となく重く調子が少しおかしいと思いながら、
 明朝炊くお米を洗って、明朝の薪を運んだ。冷たい水に引きつってくる指を引っぱり
 ながら準備は殆んど完了した。〃もうこれで終った〃と思った途端!。
 心にゆるみが起きた。 赤土をこねて、即席に作ったいびっなかまどと、かまどの上に
 乗せたお釜の間の隙が目にとまった。
 気になった登勢は思わず力一杯にお釜を引っぱったが思ったより重かった。両足に力を
 入れて釜を動かした拍子にお腹に力が入った。お釜のずれは正しくなって、隙間は無く
 なったが登勢は下腹部に痛みを感じた。〃ハッ〃と気づいたがもう遅かった。
 痛みは大分きつく感じられた。そっと掌をあてて、痛みの鎮まるのを待った登勢は、
 大急ぎで後片づけをして部屋に入ると静かに横になった。この儘痛みがもうなけれぱ
 大丈夫腹痛はおさまると思ったのだが:.……。最初程ではないが、又痛みがきた。
 子供に夕食を食べさせて、床に寝つかせた頃には紛れもなく陣痛となった。登勢は
 排便をすませ、出産の準備をして、本格的に床に着いた。 登勢が「お腹が痛く
 なった。」と言うと、橋口夫人はてきぱきと皆に命令をした。
 「柳沢さんお湯を沸して:::。舟元さんは産婆さんを呼んで来てね。私はペチカを
 たくから…:….。」橋口夫人の言葉に柳沢夫人がお湯を沸かしはじめた。舟元、
 小吉の二人の元上等兵は保給厰官舎の日本人会登録の産婆を呼びに駈け出して行った。
 登勢の腹痛は十分程の休みをおいて激しくなり、登勢は〃早く産婆さんに来て頂かぬ
 と間に合わない〃と思い始めた。 全身の力を抜いて痛みに耐えながら、
 〃産婆さんは未だ時間がかかるのかしら?”と登勢は不安になっていた。激しい痛み
 に水が下り、陣痛の間隔が短くなって、その度に下へ胎児の頭が下るのがどうにも
 止まらなくなって来たのだ。「産婆さんは末だ?。産婆さん早く来て頂戴!。」
 を繰返していると、柳沢夫人が飛んで来て、「今、小吉さんが帰って来られたから。
 もうすぐに舟元さんが案内して産婆さんが来られるわ。」
 と、言って登勢を勇気づけた。けれども未だ産婆は現われなかった。登勢に言った
 ものの柳沢夫人も産婆の現われるのが間にあうかどうかと心配になって来た。
 「産婆さんが来られる迄に生まれたら、橋口さんどうしましょう。」
  「一握りで結んで、指二本置いて、糸をくくり間を切るとか言うけれど……。
 私もしたことがないから、産婆さんを待つしか仕方がないでしょうね。」
 登勢は橋口夫人と柳沢夫人の遣り取りを聞きながら、〃もう生まれるわ〃と思った。
 「ああ!お母さん!生まれる!。」登勢の叫びと同時に泣き声もあげずに、赤ん坊は
 この世に飛び出して来た。それは将に満潮の勢であった。
 その時、お勝手の出入口に、騒がしく声がした。
 「今晩は!。」「あ!もう生まれたらしいですね。」
 「そこの廊下の突当りです。」「お湯が沸いていますから。」登勢は軽くなった
 お腹と共に、心も軽くその声を聞いた。「今晩は、産婆の黒岩です。」
 「お世話になります。吉田です。」予約はしていたが、初診であった。
 黒岩は新生児をその儘にして、登勢の容態をしらべてから新生児をとり上げた。
 赤ん坊が始めて、「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。」と三声、呱々の声をあげた。
 窒息の心配をしていた登勢は、安堵の喜びの中でその産声を聞いた。
 産婆はその儘赤ん坊を登勢の足元において、登勢の処置にとりかかった。ぼろ官舎内
 の同居の人の親切で、産湯の準備がすすめられ、産婆は軽く登勢のお腹をおさえて、
 登勢の処置を手際よくほどこした。その間登勢は足元で、こちょこちょと動く、
 暖かい、そして柔らかい、すべすべとした自分の分身を、愛おしく肌で感じていた。
 胎盤が軽い痛みと共に出てしまうと黒岩は「こんなに出血のないお産は珍らしい
ですね」と言って、新生児の産湯に取りかかった。
 「お日出度御座います。可愛いい坊ちゃんですよ。」
 赤ん坊は可愛いいと言うよりも、小さいと言う言葉が適していた。登勢は同室の柳沢
 夫人や普段煙たい存在の橋口夫人までに、親切な援けを受け無事にお産が済んだ事が、
 有難く感謝で一杯であった。
 長い間のお産に対する危倶が、すっかり解消して、胸中に拡がる安堵の思いは、
 彼女を睡りへと誘って行くのだった。ネルの産着を着せて貰った赤ん坊を、登勢は
 眺めながら、〃一体目方はどれ位あるかしら?、六百匁(二粁二百五拾瓦)?かしら、
 それとも六百五十匁(二粁四百瓦)位かしら?と考えている間に、瞼が重なりそうに
 なって来た。黒岩は新生児が水を吐くかも知れないので、少し横向きに寝かせて言った。
 「明日の朝まで赤ちゃんもお母さんも良くお休み下さい。」
 「どうも有難う御座居ました。」一週間お湯を使わせに来ますから、その間にお隣り
 の奥さんも一度診て置きましょうね。」と黒岩は柳沢夫人のお腹に目を落しながら言った。
 「明日はお昼頃に来ます。」「有難うございます。よろしくお願いいたします。」
 登勢と柳沢夫人が一緒に言った。登勢は、「御苦労様でした。」
 と睡い声で挨拶すると、もう黒岩の姿が廊下に消えて襖が閉まる音を半分夢の中で
 聞いていた。
 黒岩は日本軍の配給の外套に薄茶色のショールを巻いて、舟元と小吉に送られて
 ぼろ官舎を出た。外には肌を刺す冷たい風が吹いて、満天の空に星が降りそうな
 星月夜であった。深く藍色が沈んで冴えた空に、オリオン座の三つ並んだ星がチカ
 チカと、震えている様であった。
 翌朝、一晩ぐっすり眠った登勢は、すがすがしい気分で眠りからさめた。
 すっかり元気を取り戻した若い体には、お産の疲れは少しも残っていないかに
 思われた。
 ぼろ官舎の人々の親切で、赤児の行水のお湯も沸かされ、黒岩が赤児の行水を済ませ
 た後のお湯で、登勢が洗濯をすませると、上敷領夫人や河島夫人が、自分の家族の分
 と一緒に、戸外に干して呉れるのだった。登勢には二才ニケ月の良子を抱いて用便に
 つれて行くのが、一番難儀な仕事であった。廊下がお勝手からの粉炭と水で汚れた
 土足でべとべとであった為、お便所も土足になっていたので、いくら腕が疲れても、
 途中で子供を立たす事は出来なかった。産後に、中腰で幼児を抱いているのはお腹に
 こたえたが、親切に甘えて子供の世話を他人にまかせる気にはなれなかった。
 それにお産を三月上旬にひかえて柳沢夫人のお腹も、大分嵩を増して、柳沢の坊や
 (二年一カ月)の世話のなかばを樗木と幸子が手伝っていた。
 登勢が繁一や良子の食事の世話を済ませて、再び横になっていると、横の外の廊下で、
 繁一が大きな声で上敷領夫人に言っているのが聞こえて来た。
 「僕んちに赤ちゃんが生れたんだよ。おとうとなんだよ!。おととはね。良子には未だ
 おちんちんが生えて来ないのにね。赤ちゃんだのにもうおちんちんが生えているのだよ。」
 上敷領夫人が笑いを噛みころした様な声で、
 「あら!そう。シゲ坊。良かったね。赤ちゃん可愛いでしょう。」
 「うん、おととはね。お魚でなくて、小さい可愛いい赤ちゃんなんだよ。」  聞いていても自然に頬の筋肉がゆるんで来る様な、それは繁一の変てこな幼児の
 論理であった。
 そんな対話を聞きながら登勢は以前、里の家の床に掛けられていた掛軸の事を思い出
 していた。その掛軸には約八百年程前(一一五九年)平治の乱に敗れた源氏の源義朝の
 側室常磐御前が、三人の遺児と市女笠に雪を避けながら、平家追手を逃れて行く姿が
 画かれていた。今若をつれ、乙若の手を引き、年若を懐に抱いて、落ちのびて行く
 先は鞍馬の山か  梁川星巌の〃母の懐から雪の山にひびく呱々の声は後に千軍を
 叱咤号令する〃という意味の漢詩が斜上部に書かれていた。三人の児を連れた常磐
 御前が源氏の再興を、三児に賭けていたかどうかは別として、三人の幼児の生命力
 を信じ、子供の養育に自分の生命をかけて、心血を注いだのは、今も昔も変らぬ
 母性本能だと思った。繁一と良子そしてこの嬰児の三児をつれて鞍馬ならぬ内地へ還る。
 それは登勢のつきつめた願いであった。
 産後三日目の午後たつ.た。ぼろ官舎の勝手口(玄関代用)で騒がしく声がした。
 「吉田さん!。」柳沢夫人の驚いた様な声がして柳沢夫人や小吉や樗木と一緒に思い
 がけない出産見舞の客が、靴ばきでどかどかと現れた。
 「靴!。」「靴!。」と樗木が大きな声を出して靴を指差したので、パーシャ曹長も
 クチャカアマダムもマルキンも、廊下に靴をぬいで、部屋に入って来た。
 「吉田オクサン。パズドラブリャーユ(お日出度う)エレビヨニカシーン、ドーチ?
 (赤ちゃんは男?それとも女?)。」「スパシーバー。シーン(有難う 男の子なのよ」
 「ラシュヂェー二。。ハズドラブリャーユ(お誕生お日出とう)。」
 「ハラショー(好かった)。」「エタナーシュ、パダルクイチビヤ(これは貴女へ
 私達の贈物です)。」
 と言って銘々に登勢の前に、牛肉の缶詰。パン。洗濯石けん(十センチ位の固型)を
 置いた。それからどろりとしたものの入った瓶を大切そうに取り出した。
 (どろり)とした號珀色の液は水飴らしく、「エタ、エレピヨーニク(これは、
 赤ちゃんに)。」と差し出した。「ス。ハシーボー(有難う)。」と礼を言う登勢に、
 モノーガワーダ::.….(沢山の水でうすめてから飲ませるように……)。」と説明して、
 マダムクチャガは楽しそうに微笑した。パーシャ曹長は立膝をして珍らしそうに、
 赤ん坊を見ていたが、真面目な顔をして、登勢に聞いた。
 「グラース、スマトリ、イエスチー?。(目は見えるの?)。」登勢が
 「グラースィェスチ、スマトリニェト(目は開いても未だ見えないのです)。」と答えると、
 「ダ。ダー(そうですか?.)。」とうなずいて「ダスビダニヤ、フシボーハロージェ。
 (さよなら、では御機嫌よう)。」と言って立ち上った。登勢の
 「スパシーボ、ダスビダニヤ(有難う。さよなら)。」と言う声を後に、マダム違は
 「フシェボハロージェ。」の声を残してぼろ官舎を出て行った。
 風変りな見舞客の後発が見えなくなると、小吉が言った。「奥さん。たいしたもん
 だね。自分達は一日中働いて十センチの固型石けん一コだのに、お産で寝ていて
 稼ぐんだからね。羨ましい限りだ。」 「ロスキーのマダムも親切だね。」
 「いいわね。沢山貰っちゃったわね。」樗木と柳沢夫人も幾分の羨望をこめて
 口々に言った。
 登勢は、〃どうしてマダムが私のお産を知ったのかしら〃と不思議に思った。
 〃お隣りの官舎でさえ、皆が知っている事でもない出来事を、マダムクチャガは
誰から聞いたのだろうか?〃と考えていると、上敷領夫人と河島夫人が、
 「如何ですか?。」と言いながら、登勢達の部屋へ入って来た
。  「今朝、表の通りへ出ると、髪のちじれた小柄なロスキーのカピタン(将校)に
 出合ったの。」登勢は聞いていて、〃シンシャーカピタンだ。〃と思った。
 「カピタンが、『吉田ドクトルマダムはハラシヨ?(元気かな?)』と聞くので、
 手まねで大きなお腹を作ってから『オギャァ、オギャァ』と言うと、『ダーグ。』と
 にこにこしてうなずいていたわよ。」
 「どうりでね。先程マダムとその亭主の曹長と当番兵のマルキンが、お見舞に来て
 呉れたのよ。お宅の小吉さんや皆さんに、すっかりお世話をかけてしまって、有難う
 ございます。もう大丈夫。私はすっかり元気になbたわ。」
 「遠慮しなくてもいいわよ。何でも手伝うから、ゆっくり寝てなさいよ。」
 「そうよ。別に是非しなければならない仕事は無いのだし、何と言っても体が大切
 なんだから。」「ええ、有難う。」登勢はぼろ官舎の人々の親切が身にしみて
 嬉しかった。登勢はお乳もどうにか出て、産後一週間もすると、すっかり
 元気になった。
 二月に入って立春を迎え、さすがに暖かい日が続いた後であった。前夜から冷え込み
 が酷しく、窓ガラスにはびっしり露が浮いて、おふとんも壁側が濡れて来ていた。
 朝、目が覚めると一面の雪であった。凍りつく如月の寒さの中で、純白の雪に閉ざ
された秋乙は、美しく凍結した様に思われた。
 〃内地へは何時頃還れるのであろうか?。〃と思いながら白い雪をじっと視つめて
 いると、「故国の灯」を求めて三児を連れ、雪の肱野をさまよう敗戦の哀れさが
 心に凍りついて、彼女を一層悲しくした。それは唯やる瀬ない望郷の念であった。
 「奥さん。」上敷領夫人が入って来た。
 「今ね此の間のちじれ毛のカピタンが、  「吉田ドクトルマダム。」と言ってこのぼろ官舎へ来たのよ。私の顔を見て、
 「吉田奥さんに、セラーチ(洗濯)に来る様に伝えて呉れ。」と言って帰ったわよ。」
 「あら、そう。」
 「何でも『リース』(米)が沢山手に入ったからいらっしゃい。と言う意味らしい
 事を言っていたわ。」
 「そう。それじゃ早く行かなくちゃならない。」
 その頃、平壌の郊外の炭坑へ順番割当で使役に行く人達の仕事の見返りに、石炭は
 ソ連軍から貰う事が出来た。(それも荷車に綱をつけて皆で引いて帰ってくるので
 あったが--)けれど食糧は日一日と乏しく、ぼろ官舎の人々にとって、食糧を確保
 する事が、さしあたっての重大問題なのであった。
 登勢は赤ん坊に乳を飲ませて寝かせると、良子と繁一を連れて二〇二号官舎へと出
 かけた。ザクザクと鳴る雪を踏みくだきつつ……。
 久し振りの外出に弾んでいる繁一の足元を用心して、広場の石段を下りた。
 背中で足をぱたつかせながら良子が「キー(ロスキー)のとこへ行こうね。」と言った。
 「母さんはお仕事があるから、お利口にしているのよ。」と話しながら官舎の門を
 くぐった。しかし門の横の終戦の時サワサワと青葉を鳴らして、登勢達の心を慰めて
 くれた桐の木はもう見られなかった。半月余り来ない間に、あたりが何となく変った
 様なとまどいに、一瞬登勢はひるんだ。思いなおして積雪を踏んで入って行くと、
 以前の防空壕の上に桐の木が根元から切り倒されて、雪をかぶって転んでいた。
 「ドヴラヤウートラ(おはよう)。」と手に吸いつきそうに冷えた勝手口の取手を
 思い切って引っ張ると、案外簡単に開いて、マルキンの愛くるしい顔がそこにあった。
 先日のお祝いの礼を言うと、笑顔でうなづいた。
 「吉田奥さん。イジスダー(此処へいらっしゃい)。」とクチャカマダムの声に招じられ
 て入って行くと、マダムはにこにこしながら、オンドルの部屋の寝台に腰掛けていた。
 「モノーガパダルクスパシーボ。(沢山の贈物を有難う)。」と礼を言うと、マダムは
 登勢のお腹の小さくなったのを指差して愉快そうに微笑した。
 「ティハラショ?(お元気で?)」
 「スパシィボ、ハラショ(有難う元気です)。」
 そこヘシンシャカピタンが現われた。彼は手まねを混えて登勢に言った。
 「吉田奥さんセラーチラボート・…-(洗濯の仕事が沢山あるのでお願いする。マルキン
 がお湯を沸かしているからお湯を使って……)。」
 マルキンはマセック(絶無煙炭)を沢山投げ込んで、お風呂のお湯をどんどん沸かしていた。
 シャツ、股下、作業用ズボンと上着等洗濯物は脱衣場に一杯になっていた。登勢は赤ん坊
 をぼろ官舎に寝かせているので、急ぎたてられる思いで洗濯に取り組んだ。登勢はマダム
 やカピタンの好意に応える為にも出来るだけ完全な仕事をしたいと思って汚れは丁寧に
 石けんでこすった。汚れを充分に落して美しく洗いあげ力一杯に絞って四斗樽に入れた。
 濯ぎも暖かいお湯を沢山に使って、洗濯は気持よく早く終った。洗い終った洗濯物は、
 四斗樽に山盛り一杯に溢れた。四斗樽をマルキンがかけ声と共に戸外に運んだ。
 四斗樽から溢れた分をバケツに入れて登勢も戸外に出た。
 外は一面の銀世界で寒かった。軒から一杯に氷柱の下った物置小屋!。そこには
 繁一や良子が可愛がっていた兎ももう居ない。物置小屋の柱から防空壕の上に一本だけ
 残っている物干の柱にマルキンは、登勢に手伝わせて、綱を張り渡した。綱を張り
 終るとマルキンは、濡れた洗濯物が一杯入った重い四斗樽を、「やっ!」と持ち上げて
 15センチ程も雪の積もった防空壕の上に運んだ。子供じみた力自慢をマルキンに限らず、
 ミッシャーでもイワンでもソ連兵はよくして見せた。登勢の方を向いてマルキンは、
 「ヤ、ハラシヨ?(私はえらいでしょう)。」と尋ねるので、登勢は
 「ダーハラショー(ええ、えらいわ)。」と答えて、真白な雪の上に張られた綱に
 洗濯物をせっせと干した。洗濯物はまたたくまに凍でついて、風は冷たかった。
 登勢もマルキンも無言でせっせと干した。干し終って、「オオ、ホロドノ(寒い)。」
 「おお!寒む!。」二人が同時に云った。顔を見合せて肩をすくめ思わず笑った。
 マルキンは再び云った。「吉田奥さん、ヤ、ハラショ?。」
 登勢はマルキンが仕事の自慢をしているのだと思った。良い事も承知したと云う事も、
 偉い事も何でもが、「ハラショー」でまかり通っていた。
 「ハラショ!一」は登勢の知っている数少いロシヤ語の中では一番沢山の意味を持って
 いる事に、登勢は気づかなかった。
 マルキンが「私を好きか?」と問うた「ハラショー。」の意味が登勢には判らなかった。
 登勢は微笑しながら、「ダー(ええ)ハラショー。」と答えた。
 登勢は「マルキンは仕事熱心によく働く」と云う意味で云ったが……。マルキンは
 笑いながら登勢の方へ二、三歩近づいた。驚いた登勢はさっと身をひるがえして、
 バケツを持つと勝手口から家へ飛びこんだ。後からマルキンも家へ入って来た。室内の
ペチカは暖かく燃えていた。
 冷えきった手足が暖まると登勢は帰る仕度を始めた。それを見てカピタン、シンシャー
 がマルキンに米を一叺(三五K位)持って、登勢を送って行く様に言いつけた。
 マルキンはジンジャーが登勢に親切にしすぎるのが一寸しゃくであった。
 登勢の当番兵でもないのに。登勢はシンシヤーとマダムに礼を云って外に出た。
 空には白い新月がうすく細く、白雲が昇華したかの様に懸かっていた。片手に洗濯板
 を提げ、雪にすべりそうな繁一の手を引いて、登勢はぼろ官舎の幼い生命の危機も
 知らずに、良子を背に歩を運んだ。
 以前マルキンが乾パンを担って、登勢の後から送って行った時より、米の叺は重かった。
 繁一の足に合せて、すべらぬ様にと用心しながら登勢がゆっくり歩くので、遂々
 マルキンは先に立って歩き出した。
 拾二、二歩先に歩いては雪の上に叺を下して立ち止り、「ヴイストロ、。ハィジヨン
 (早くおいでー)」を繰返すのだった。
 広場前の石段を登って踏み出した時だった。繁一の足がよろめいた。あっ!と手を
 引いた拍子に登勢の足がすべつた。その時、横で叺を下して待っていたマルキンが、
 さっと登勢を支えた。危うく重心を取り戻した登勢は、ねんねこの上からマルキンに
 支えられて、一瞬!。礼を云うべきか?それとも怒って手を振りほどくべきか?に
 とまどった。マルキンはにやっと笑って、肩をすくめて歩き出した。怒らなかった事
 が誤解をまねく結果になる事等は思いもそめず、登勢は後から歩いた。ぼろ官舎に
 着くと自称二十六才の少年兵はドサリと米の叺を廊下に下し、一つ大きく背のびを
 して帰って行った。