十四、吹雪
愈々秋乙を出発する日、夜明け前から酷しい冷え込み方で窓ガラスの外には霜が
びっしりとついて、屋内の壁際のふとんの裾もしとど濡れていた。
「奥さん!一そんなに睡っていたら放っておくよ。」
樗木のそんな声で登勢は眼を醒ました。
まだ薄暗いのに思ったのはお天気のせいであった。もう時間は七時前らしかった。
殆どの人が手荷物を手縫いのリユツクに詰めていた。行先は〃鎮南浦〃らしいという
事である。
毛布は出来るだけ持って行く様と云う專、皆せっせと荷作りをしている。
何処へ行くのか?。すぐ日本へ帰れるのか?。誰にも確実な事は判っていない。
行先は鎮南浦としても乗船する迄は、いや、日本内地の土を踏む迄は決し安心出来
ないのだ。
登勢は小さな赤ちやん用のふとんと調度品の中でも親子四人の生活必需品を布団袋
に詰め込んだ。ぎりぎりの域を出ないのに結構大きな包となった。
どんな事態が何時生じても三人の子供(幼児)を守って内地へ還らねばならない悲壮
な決意が登勢を支配していた。
荷物は舟元、小吉の若い男達の手でせっせとトラック迄はこばれた。
登勢は赤ん坊(秀坊)を四つ折にした毛布でくるみ、その上からおんぶ紐をかけて背おい、
ねんねこを羽織った。
繁一と良子にオーバを着せ、官舎の南の広い(約20m程)道路へ出た。もう道路には
ソ連兵が運転するトラックが来ていた。トラックには一杯に荷物が積み込まれ縄がかけら
れていた。荷台に立ったままより、女・子供は荷物の上に座る方が楽であろうと云う事で、
登勢等は山盛りの荷物の上に座った。登勢達が乗って、続いて一番最後に樗木がトラックに
乗るや否や、もう車は発車した。登勢は良子が転げ落ちない様にと良子を抱え込んで、
片手で荷物の掛け綱をつかんだ。登勢は繁一が危なつかしく、繁一のオーバを肘で
おさえる様にして座った。けれど、どうしても繁一を支える余裕がなかった。
「しーちゃん、縄をしっかりつかむのよ。」と声を掛けるのが精一杯であった。
うっかり重心を失えば疾走するトラックから何時振り落とされるかも知れないのだ。
広いだけが取り得の様な凸凹の道路を、若いソ連兵は乱暴な運転で迅って行く!
雪を誘う疾風が黄塵を舞わせながら頬に痛い程の冷たさを吹きつけて過ぎる!。登勢は、
〃トラックから繁一が若し振り落されたら大変だ〃と云う心配で唯繁一をじっと見つめていた。
何処をどう走っているのかも何も判らず、冷たい油汗を額に惨ませて疾風に耐えている
時間は随分と長く思われた。 本当は30分そこそこであっただろうか?。
やっと平壌駅で列車に乗り込んだ。列車は朝早くから動いていたらしく、登勢達は二番目の
折返しの列車らしかった。殆んどが秋乙から来た人達である。全員が「内地へ還れる!。」
と云う思いに喜びを面に漂よわせている。皆いそいそとして列車の席に腰をおろした。
緊張から解かれた様に柳沢の栄子が「あー、あー。」と大きな声を出したので皆がどっと笑った。
〃鎮南浦で船に乗るのだ。これで内地へ還れる!〃云わず語らず皆の思いは帰国の船に
乗っていた。
これから前途に幾山河が横たわり道を迷えば河は三途の川に続く事も、38度線の障害をも
誰もが考える余裕を持って居なかった。
「ダモイ。東京(日本)!。(内地へ還る)」の夢を乗せて重い雪雲の下を汽車は「ゴトゴト」
と走った。二時間半程も走った頃だった。
古角元上等兵(召集入隊以前は国鉄勤務の車掌であった。)が列車に廻って来た。彼は、
「間もなく列車が止まります。この列車を消毒するそうですから皆さん下車して下さい。
少し行った処に風呂がありますから、風呂に入ってから戻って来て再び汽車に乗って下さい。」
と明るいよく透る声で云った。
皆驚いてがやがや云いながらあわてて下りる準備をした。その中に汽車が止まったのは
小さな駅なのか?。駅舎らしい建物も無い田圃の真中であった。登勢は秀坊を再び四つ折の
毛布で巻いておんぶした。少し以前より鉛色に重かった空からは、ちらちらと粉雪が落ち始めていた。
登勢はねんねこを羽織ったり繁一と良子にオーバを着せたりするのに手間どって汽車を降り
たのは最初の人から大分遅れていた。
そこから200メ−トル程先のお風呂場附近まで巾80・程のやっと2列で通れる畦道がついていた。
柳沢夫人は〃これから日本へ引揚げて帰る迄お風呂に入れないかも知れない〃という危倶が
あった。この際入浴しておこうとばかり、大急ぎでお風呂場へと向った。彼女にも生後一ケ月
余の男の赤ん坊がいるので幸子と栄子をせかせて手際よく風呂へ入った。
風呂場は山里の学校の分教場の様な建物であった。
入浴すると云っても日本の〃銭湯〃と全然違っていた。
脱衣した衣類は、くくって吊り下げ、一坪程の湯舟からくんだ手桶一杯だけの湯を裸体にかけて
洗うのであった。
風呂へ入っている間に吊り下げた衣類は蒸気でむして乾燥消毒されているので風呂から出ると
それを 着るしくみになっていた。
寒さの中で、湯舟の中に全身どんぶりっかつて暖まる日本の銭湯と違って、それはソ連式の入浴
なのだ。建物は田圃の畦道から見えていたが、登勢は幼児3人を入浴させる事にとまどいを感じてい
たのでゆっくりと歩いた。次々と後から来た人が登勢達を押しのける様にして追い抜いていった。
登勢が畦道の横に身をかわした様にしながらゆっくりゆっくりり100メ−トル程畦道を歩いた頃、
もう入浴を終えた人達が帰ってくるのに出会った。二列で歩いた。登勢は一列になって入浴が
終って 帰っ来る人と入れ違いながら歩いた。
汽車降りた頃から、小雪は吹雪となって風呂上りの人々にも登勢達親子も気ぜわしく降りかかった。
「おお寒い!。」「冷えてしまう!。」「速く汽車に乗らないと…。」足踏みをしながらすれ違いざま、
「寒い」を連発して小足に駈けてゆく人達を見て登勢は愈々入浴しないで引きかえす決心をした。
20m程すれ違った頃、登勢の後に続く人が無くなった。
「今だ!!。」
登勢はくるりと繁一と良子を後向きにさせると、靴を直す振りをしてしゃがんだ。そのまま、
自分も後へ向きを変えると入浴の終った人達の列に混ぎれて歩き始めた。
再び皆が乗り込むと汽車はさっき来た線路を少し戻ってから方向を変えてゆっくりと走り出した。
子供達はうとうととまどろみ始めていた。
線路の行き止まりで汽車を下ろされた人々は疲れていた。〃鎮南浦だ!〃愈々!〃〃内地帰還〃
誰もが期待と希望に疲れを忘れた。誰云うとなく「乗船の為埠頭へ行くのだ。」と云う言葉が流れた。
人々は重い足を力一杯軽やかに運んだが、少し行っては止まり、少しも進まない。近道だと云う道
の両側に雑然とトタン屋根の建物がある材木置場らしい処を抜けやっと広い道に出た。
雪は止んでいたが登勢は、眼前に吹雪の舞う道が続く様な思いに囚われた。
前方に入口の前だけは鉄さくで周囲は有刺鉄線をめぐらせた埠頭の門が見えているのに行列はなか
なか進まない。 「そんなにぐずぐずしていては今日中に船に乗れないねー。」
「門番が人数を数えているのだ……。」(ソ連兵は数をかぞえるのが不得手であった。)
皆で様々の憶測をしていると、「二百五拾部隊の家族は早く門前へ来て下さい。」
橋元省三世話役の声がした。
橋元が人数と名前を書いて来た帖面を渡し説明したので二百五拾部隊の家族達は優先的に埠頭の門を
くぐった。
登勢達が連れて行かれた処は大きな米穀倉庫であった。綱で仕切がされ、男達の手で筵が運び込ま
れた。 コンクリートの上に筵が敷かれ、どうにか休憩出来る場所が出来た。その後大分遅れて
倉庫へ次々と人々が入って来て綱の仕切が増え、場所は段々と狭められて、一家族に一、五帖位
の割になった。
綱の仕切りの処に、各自の荷物を積み上げて、小屋がけの芝居の桟敷の様な形になって、広さ20帖
程が二百五拾部隊の家族全員の居場所となった。当分の間船を待って倉庫で暮らすと云う事であった。
今日中にでも乗船出来ると考えていた人々は、すっかり気落ちしてしまって、力無く筵の上にくず
折れる様に腰を下した。
こうして登勢達の米穀倉庫での生活は始まった。
一週間程の間に、埠頭に建ち並んでいる米穀倉庫は、次々と送り込まれた日本人で全部一杯になった。
班が構成され登勢達の二百五拾部隊は16班と呼ばれる様になった。
三月も終りに近づいていたが未だ寒さは厳しかった。
登勢達の住む倉庫と隣の倉庫との間は3米程も空いていたので、天気の良い日は日当りのよい空地は、
人で一杯になった。その空地からは突堤が良く見えた。長く突き出た突堤に誰が植えたか桜の木が
一本枝を張っていた。
四月になれば内地引揚げが開始されるだろう。〃桜咲く日本!〃。観念の世界に入り込んで、誰もが
無口になっていた。桜!それは故国の花である。寒風に晒されながら、無言で桜の木を眺めるだけ
でも皆の心は柔らいだ。
埠頭は大同江の河口に位置していたので、突堤の向うにある海の広がりは、建物に邪魔されて見え
なかった。
けれども空を流れる雲や、入って来た船や、出て行く船は空地からよく見えた。見ていると、二隻
船が入って来た。
最初の間は、〃あの船に乗るのだろうか?。出発する日は?〃。と云う期待が多分にあった。しかし
それも空しく消えて行った。
帰国について何の音沙汰もなく周囲には監視のソ連兵が銃剣を着けて前哨に立っているのだ。
異国の地に、〃捕虜として抑留されている〃現実がそこにあった。間もなく使役の割当が通達され
て男達は毎日出て行く様になった。五彩を放って、大同江の河口に浮んでいた希望の風船は萎み
きって、桜咲く美しい日本の夢も一緒にシャボン玉の様に消えてしまった。
倉庫は東西に長く、西に入口があった。(はっきりした方向は判らない)大きな扉の入口を入った処
から奥(仮に東とする)へ一米程の巾に綱を引いて仕切り通路が作られていた。北側の中央にも扉が
あったが、中央の扉は水を運ぶ時とか燃料を運ぶとか食糧(お粥をはこぶ時以外は閉じられていた。
ドラム缶が北側の中央入口を入った処に置かれて、そこで皆の飲み水が沸かされていた。昼間は
ドラム缶で火が燃やされ始めたので、横に位置する16班は割合暖かい特等席になった。
それでもコンクリートに一枚の藁筵を敷いて床代りにしただけの、だだっ広い倉庫は夜になると
よく冷えた。
倉庫の生活が始まって間もなく、鎮南浦へ移転途中の入浴がたたったのか、風邪や麻疹が流行して
来た。
一才未満の体力のない赤ん坊は風邪から肺炎を起し、熱も七度五分を越さないままでクシャミと
共に鼻が出て呼吸が止まり、天国へと旅立って行った。
乳児や幼児を抱えた夫人達は夢中で一心不乱に看護をした。空地へ出る人も無く、倉庫の中は薄暗く、
重苦しい空気に包まれていた。
登勢は麻疹が内攻して死ぬ幼児達を沢山目前にした。無気味な程に蒼白となった皮膚には、発疹の
赤味などかけら程も無く、母親の嘆きをもその儘に幼い魂は昇天して行った。麻疹の流行に対して
倉庫の日本人会の唯一人の医師の指示によって母親の免疫を我が児に与える方法が取られた。
(現在の様に免疫抗体のガンマグロブリン等<はなく麻疹に罹った児の発疹の出た日から五日目位が
一番免疫性が強く少量五cc位で良いが、麻疹にかかってから、20年以上も経た免疫性では20ccを
要すると云う)看護婦の経験と免許を持つ数人が早速動員され、母親の希望によって、
その母親の腕から20ccの血液が採血され、クエン酸ナトリウムを混ぜて(血液の凝固を防ぐ為)幼児の
臀筋に注射が打たれた。
その二、三日前から良子は37度5分程熱がしていた。麻疹の始めは風邪に似ている。麻疹は体力に
よってその症状に差は多いが、全身病である為、皮膚ばかりでなく、全身の粘膜すべてに発疹が出て、
口内から胃壁に迄発疹が出てくる由、その為消化能力が落ちて、下痢の症状を呈する事も多い由だった。
登勢は自分の血液が良子の生命を守って呉れる様に神に念じながら20ccの血液注射で大きく赤く腫れ
上った良子の臀部に温い湿布を当てて揉んでいた。
しかし次の日には却って熱が高く38度になって来た。その次の日も良子の熱は下らず、やはり38度を
上下していた。そして五日目には三十八度五分にもなった。熱が高いのに発疹は表面に出ず、登勢は麻疹
の内攻を恐れた。
麻疹が表面に出ると云う〃小林の烏犀角散〃が日本人会から希望者に斡旋されたのはそんな時であった。
〃烏犀角散〃を飲ませた翌日、良子の顔にも手足、お腹にも発疹が現われて来た。これで峠を越すのかと
思ったが、麻疹は咳を伴い、咽喉がぜいぜいと云う様になって、39度の高熱が続いた。配給の薄いお粥
も食べず咽喉をこすのはお湯だけであった。
良子に気をとられていた登勢が、眼元が赤い様な繁一の様子に気づいて検温すると38度もあった。翌日に
なると繁一の熱は39度をこえ、額にもお腹にも地腫れがしたと思う程発疹が出て来た。ニケ持っている
水筒に熱湯を入れ、湯たんぽの代用にして良子に使っていたのを一ケ繁一に使わせたが、余りにも繁一の
熱が高いので、高熱に脳がおかされないかと登勢は、脳膜炎の事が心配になって、水枕で頭を冷した。
そして肩が冷えない様に毛糸を二本どりで編んだ大人用の防寒シャツを着せてふとん代りとして寝かせた。
力無く眼を閉じている良子と違って、繁一は動き廻るので、仕方なく繁一にカルモチン半錠をのませた。
やっと静かに水枕をして、熱っぽい顔をあどけなく上向けて繁一は昏々と眠った。
鎮南浦の生活が始まってから街へ仕事に行く人も、持物を街へ売りに行く人も出来て来た。届けを出せば
門番も最初程にやかましく云わなくなっていた。日本人会にたのめば、持物は売りに出して貰えたが、
代金の受取りが大分遅れた。それで多くの人は、倉庫から街へ出かけて行く元軍属の中井にたのんで、
様々の物を売って貰っていた。登勢も鰐皮のハンドバッグ(これは戦前夫からボーナスと一ケ月の給料全部
をはたいて贈られたものであった)や、純毛毛糸の登勢が手で編んだ大型ショール等を売って貰って、
カンフル注射液を買って来て貰った。
(一箱45円。注射液は闇ですごく高償だった。)
衰弱しきった良子は、脈が結滞してカンフル注射を三十分おき位に打たねばならなかった。脈の打ち方も
乱れ勝であった。登勢はもう夢中で神に祈っていた。 その夜の事であった。良子が急に咳込んだ。
〃あっ〃と思ったのと脈の結滞がひどくなったのが同時だった。
良子の顔はチアノーゼをおこして唇の色はふなめ色であった。登勢は慌ててカンフルのアンプルを歯で
噛んだ。
注射器を持つ手が震えて注射針がアンプルのガラスに当ってガチガチと鳴った。無我夢中で注射を打ち
終えたが、登勢は胸の鼓動がなかなか治まらないで、じっと良子の表情を見つめていた。
痛いカンフルの注射を打たれても良子は泣き声もあげず……。意識があるのかないのか?
そのうちに良子の顔からチァノーゼはとれたが、高熱にぐったりとした良子は、時々おびえた様に手足を
ビクッとさせながら眠りにおちた。
登勢は眠れなかった。眠っている間に若しや?と云う心配が先に立って、まんじりともせず朝を迎えた。
登勢の周囲ででも赤ん坊が次々と死んでいった。
登勢達の後側の元山中副官夫人の処でも、横の上敷領夫人の処でも、柳沢夫人の処でも、夜になるとお経
を唱え、お燈明をあげていた。秋乙では長男の坊やを、南浦では次男の赤ん坊を亡くした柳沢夫人は、
良子を見ると死んだ坊やを思い出すので、登勢達と少し離れて場所をとっていた。柳沢夫人の悲しみが
よく判るだけに登勢も辛らかった。
登勢も愈々良子が死ぬ番ではないのかしら?と考えると恐怖に身のちじむ思いだった〃神様どんなに
してでも子供の命だけは救けて下さい。内地に帰った途端に私の命を代りにお召し下さっても構いません
から、子供をお救い下さい〃。その夜も登勢は一心に祈りながら、30分ー40分置に、カンフルの注射を
打っていた。
突然!。登勢達16班の反対側で異様な叫び声がした。それは断腸の叫びであった。思わず立ち上った
登勢がそこに見たものは、何とも奇妙な光景であった。
四才位の寝ている幼児に向って、三十才位の母親が大声で何事かを叫びながら、女児の着物を引きちぎる
様にしてがむしゃらに投げつけている。
周囲の人々が引きとめてなだめているのに、遂々女児を素っ裸にしてしまった。女児の青白くむくんだ肌
には発疹のかげもなく、女児の腹部は死魚の腹を思わせる光沢さえおびて、全身を死の影が静かに支配
していた。
それと対象的に、裸電球に輝らされた母親の顔は、赤らんで苦痛に歪んでいた。
そのうち、母親はくず折れる様に座して大声をあげて笑い泣きを始めた。三人の愛児を四、五日程の間に
次々と死なせた哀れな母親は、遂々気がふれてしまったのだ。隣席の人達が素裸にされた女児の死体に
着物を着せかけた。
毎朝、夜が明けると登勢は、子供達が眠っているのを見すまして、汚れたおしめや肌着を抱えて洗濯場へ
駈けて行った。
倉庫の建物に囲まれて洗濯場があった。その横は干し場で紐が幾条も引っ張ってあった。少し離れて筵を
吊り下げて入口としただけの便所があった。その便所の向う側は石垣をつんで少し高くして簡単な事務所風
の建物が建っていた。便所の横は有刺鉄線の垣がめぐらされて、事務所風の建物に近いところに小さな入口が
あり、そこには若いソ連兵の歩哨が何時も立っていた。
登勢は、子供の事が洗濯をしている間も心配で、愛児の命を悪魔がねらっている様な錯覚におそわれて、
駈け足で倉庫へ帰るのだった。倉庫の入口は扉を開けて代りに筵が吊り下げられ、自由に出入出来る様に
なっていた。筵は倉庫の保温にもなり、開閉の度に大きな音のする重たい扉と違って便利であった。
一歩倉庫へ足を入れるとすぐ秀坊の泣声が登勢の耳に感じられ、彼女は飛ぶように筵の席に戻るのであった。
しかし愛児を亡くした夫人達は倉庫へ帰るのも足が重かった。16班では多くの家族達が愛児を亡くして
悲嘆にくれていた。山中元副官夫人は乳飲児の長男を、遂々死亡させてしまった悲しみが胸に溢れ、
筵の席にうずくまっていた。夫人のすぐ前横に寝かされて泣いている、登勢の次男(秀坊)の泣き声が身に
泌みて、その度に乳房がキュンとなって、乳首から涙の様に母乳が滴り落ちた。「おお。よしよし泣かない
で?。」思わず夫人は秀坊を抱き上げた。抱き上げられて赤ん坊は泣くのを止めた。そして右に左に首を
廻して乳を探した。登勢が倉庫の筵の席へ戻ると秀坊が居ない。「あれ?。」と驚いたトタン・
「奥さん。余りに泣いて可愛想でー。」山中夫人が秀坊を抱いたま、声をかけた。
登勢が「すみません。小さいのに大きな声で泣いて-。」と詑びると、
「いいえ、お腹が空いているのと違いますか?。私のお乳あげてもよろしいか?.。」
山中夫人はひかえ目に云った。登勢は余りお乳が出ない体質で秀坊は小さかった。山中夫人の言葉は登勢に
とって渡りに船であった。登勢は嬉しかった。「有難う御座居ます。どうぞお願いします。」
と登勢は深々と頭を下げた。上敷領夫人が横から、「私の処も坊やを死なせてしまって、子供を死なせた
母親の、心はどんなに切ないものか!死なさない様に奥さん頑張って頂戴!。構わなかったら私のお乳も
秀坊に飲んで貰って!。」身を揉様にして云う上敷領夫人の眼から大粒の泪がはらはらとこぼれた。
乳人の様に秀坊に乳を与えて呉れる人が出来て登勢は嬉しかった。そして有難かった。
〃良子に私のお乳を飲ましてやれる〃。登勢は二人の夫人に赤ん坊をたのんで良子に乳房を含ませた。
〃良子はもう駄目かも知れない。出来るだけお乳を飲ませてやりたい〃。それは彼女の切ないまでの母心
であった。横では発疹と熱で赤らんだ顔の繁一が静かに眠っている。通りがかりの樗木が声をかけた。
「しーちゃんおとなしく寝ていますね。良子ちゃんはどうですか?.。何とか快くなって貰わないと16班
の4才以下の子供は全滅になります。奥さん。頑張って下さい。」「はい。有難うございます。」
登勢達の筵は通路の傍なので、皆が登勢の不眠不休の看護を励まし力づけて通って行った。
「奥さん。此の間の話の薬、持って来ました。良子ちゃんに飲まされますか?。」街の病院の医務室関係
に出入している薬剤師の一幡氏であった。
「有難うございます。」
戦前肺炎の特効薬とされていたバイエル社のトリヤノン末である。登勢は神の救いだと思った。
一幡氏は温厚誠実な人柄で皆から信望があった。一幡氏の頭から後光が射している様な思いで、登勢は
薬をおし頂いて早速良子にのませた。特効薬と云われるだけあって、薬は偉大な効力を発揮して、
熱は三十八度以下に下り、夕方には三十六度八分に下った。〃どうにかこれで良子の病気は峠を越した
のであろうか?.でも油断は出来ない。〃と登勢は思った。登勢の指先に感じられる脈博の弱々しい不整脈
〃栄養失調の上に高熱が続き何も咽喉を越さなかったので、衰弱がひどかった。
〃うすくなった血液は心臓を持ちこたえられるだろうか?.
〃翌朝、登勢は前田医師に診察をたのんだ。
埠頭の倉庫の住人の中で、〃殆んどの人が完全な健康体ではない。〃と云ってもよい栄養状態である。
前田医師は多忙の中から、良子の診察をして首をかしげた。
「大分衰弱がきついですね。五%の葡萄糖注射液が手に入れば打ちましょう。それが無ければもう輸血しか
方法が無いですね。注射液を何とか探して見ましょう。一本百円でも良ろしいか?。」
「はい。どうぞお願いします。」
登勢は思った。〃子供の命が助かるなら何も要らない。たとえ多額の借金をして、その為一生を苦労の中
に埋もれても構わない。〃
横から上敷領夫人が、
「奥さん。早くお金を持って行った方がいいわよ。
それも日本円でね。」と云って教えてくれた。
そして、前田医師の処では、何でも手に入る様な意味を臭わせたので、登勢は医師にもいろいろとある。
夫吉田軍医の様に仁術に徹した者もあるのにと一寸厭な感じがしたが、ともかく早速お金を持って頼みに
行った。筵に帰って来ると元上等兵の小吉実利が声をかけた。
「奥さん。若し注射液が無かったら、自分は0型だから血をあげます。」
樗木も、「奥さん!一心配しなくても、私も0型だから輸血の血を上げますよ。」と登勢を慰めた。
二人に勇気づけられて登勢は有難かった。
「有難う。すみません。」登勢の声はつまり、眼は有難泪に曇っていた。食糧と云ってもうすいお粥。
自分一人の命もどうなるか判らない時に、大切な血液を呉れると云う二人に何とお礼を云えば良いの
か判らなかった。
お昼前頃だった。添寝の様な姿勢で登勢は良子にお乳を飲ませていた。今は母乳だけが良子に与えられる
栄養であった。昨日よりも母乳を吸う力が強く加わって来たのが、登勢を力づけた。そこへ、前田医師が
五%の葡萄糖注射液をたずさえて現れた。
「少し元気が出て来た様だね。注射液が手に入ったから注射をしましょう。一昨日から二本たのんであった
のが今やっと届いたのに、一本はもう要らなくなったので持って来ました。奥さんの処は運が良いですね。」
何処の児か知らないが、注射液が届くのを待たずに、死んで行った児が哀れであった。
静かに登勢は目祷をした。「これで元気が出るでしょう。脈の結滞さえ起らなければ、もうカンフル注射
はしなくても大丈夫と思います。」「どうも有難うございました。」
医師の帰った後、良子は生気を取り戻して来た。前田医師の云ったとおり、脈の打ち方も目に見えて元気に
なって来た。「もう大丈夫!!」と思った途端、登勢は急に疲れが出て来た。考えてみるともう十二日間、
夜も殆んど眠っていなかった。立とうと、思ってもどうしても足に力が入らない。ヘタヘタと座り込んだ
登勢に、「奥さん、少し休まないと奥さんが倒れたら大変だわ。私が良子ちゃんの番をしてあげますよ。」
上敷領夫人がすぐ横から助け舟を出して来た。遠慮する元気もなく、「お願いします。」と云うやいなや、
登勢はばったり倒れる様に横になるとそのまま眠り込んでしまった。
登勢はそれからどの位の時間眠ったのか?寝ていた時間は長い様であり短い様でもあった。
おそらく刃で刺し殺されても起きない程正体もなく睡りこけていた。
繁一の「おしっこ」と云う声に眼をさました登勢は、バツと驚いて飛び起きて良子を見た。良子も秀坊も
静かに寝ている。
繁一の額に手を当てると、熱は殆んど下っていた。登勢の長い間の緊張がほぐれて、それは歓喜に変って
行った。「あら!。奥さんもう起きたの?。もっと寝ていたらいいのに。」
「はあ、有難う。お蔭でよく眠りました。」
登勢の若い体は僅かの睡眠で、もうすっかり活力を取り戻していた。
太毛糸の大人のシャツの袖口をまくり上げ、ブクブクに着膨れた繁一を、御不浄へ連れて行きながら
登勢は心の中で祈っていた。
〃神様!。有難うございます。お蔭で子供は助かりました。不信仰な私や三人の子供達の為に御恵みを
頂いて有難う感謝致します。
きっと内地で私達の事を祈って下さっているクリスチャンの姑(はは)茂野の願いをお聞き下さったのだと
思います。有難うございます。
生前二人の孫を可愛がって下さった福崎のお祖父ちゃん有難う御座居ます。お祖母ちゃん有難う御座居ます。
亡き二人のお祖父ちゃん 孫をお守り下さって有難う御座居ました。神様有難う御座居ました。
神様有難く感謝致します。〃
何度も何度も心中で有難う感謝致しますを繰返し、お世話になった16班の人々の援助と励ましに対しても
一人一人にお礼を云いたいと思った。登勢は倉庫の人々全員にお礼を云って廻りたい程嬉しく有難かった。
しかし倉庫へ一歩足を踏み入れた途端!。愛児を亡くした人々の悲しみで、暗く淀んだ空気が肌に
ひしひしと感じられて、彼女は悲しくなった。悲しみは彼女を現実の問題に直面させた。
生れて半年は母体の免疫を受けているとは云え、抵抗力のない赤ん坊が殆んど死んで行ったのだ。まだ秀坊
は麻疹に罹っていない。こんな衛生状態の中で、免疫があるからと安心して居られるだろうか?。
そうだ!。この際に繁一の免疫のある血液を、秀坊に注射しよう。繁一は麻疹に罹って発疹が出てから
一週間にもならない。繁一の血液なら免疫性が強く、僅か5ccで充分の筈だ。
「シーちやん。秀坊に血をやってくれない?。そしたら秀坊は病気しないから。」
「うん。いいよ。」利き分けのよい長男繁一の返事に、済まないとは思ったが、早速血液注射を打つ事
にした。
血液の凝固を防ぐグエン酸ナトリウムが無いので手早くしないと駄目なのだ。16班で正看護婦の資格を
持っている産婆人に云うと快く引き受けて登勢の席へ出向いてくれた。
「シーちゃん。じっとしているのよ。」「大丈夫!!。」
繁一の静脈から真紅の血が注射器に吸われた。秀坊の臀筋に注射針が立てられた。秀坊は瞬間泣き声を
上げた。血液が流れる様に動いた。と思ったのも束の間、動きが止まった。
「あっ!。」難波夫人と登勢が同時に叫んだ。
良い具合入っていた血液が詰ったのか、動きが止まったと同時に「パチン」と注射器は破裂した。
3cc以上は入ったが、残りの血液はこぼれてしまった。
〃少しでも良いのだ。小さい体には3ccで充分だ.〃と登勢は自分で自分に云い利かせていた。繁一が、
「秀坊は泣くから駄目やねえ。注射器がこわれてしまった。僕は泣かなかったよ。」と云ったので、
「坊やはお兄ちゃんやもの強いねえ。」と難波夫人は繁一の頭を撫でながら微笑した。
麻疹の流行は随分と猛威を振い、その上麻疹から肺炎を起した為、倉庫の住人三千余りりの内の
約八分の一にあたる四百人近い乳幼児が死んで行った。
最初は石炭箱に死体を入れて埋葬していたのに、石炭箱も手に入らなくなり、墓地も地元民に荒らされて
衣服は亡くなり、その上、野犬が出て食い荒すと云う悲惨さであった。登勢が夢中で子供の看護に明け
暮れている間に月も代わり、気温も暖かくしのぎよくなっていた。もう突堤の桜も咲いている筈だがと
桜花を一目見たいと倉庫を出て空地へ行ったが、時既に遅く、桜花はもうすっかり散っていた。
満開の時でも色あせて見えたと云う桜は、もう葉桜と云うにもお粗末な程、佗しい落花の果であった。
登勢にはそのみすぼらしい桜木は、次々と死んで行った幼い子供達への哀悼の姿勢だと思われた。
皆が待ち恋がれた春は、吹雪の吹き荒れる様な倉庫をさけて通り過ぎて行く様であった。
三部::第15章:雨風
十五、雨風
「皆様お早うございます。扉を全部開けて朝の新鮮な空気を入れて下さい。」
登勢達16班のいる倉庫では、毎朝古角上等兵によって朝の挨拶がなされた。
彼のきびきびとした動作と共に、明るいよく透る声は、皆の沈みきった気持を引きたたせるのに不思議
に力があった。ボール紙のメガホンしかないのに、彼の声はよく隅々に透って行った。
秋乙日本人会の小林会長は、鎮南浦に来てからも敗戦後の日本人の、生命の保証もない窮状を感じるに
つけ、一日も早く引揚を促進する為の交渉に心血を注いでいた。
地元北鮮との交渉もあった。ソ連側とのかけ引きもあった。北鮮側は日本の戦争のおかげで疲弊した国土
建て直しの為にも、日本人は高級衣類、純毛の物、時計、宝石・皮靴、等総べて残して無一物で帰るべき
である。と云う意見であった。
ソ連側は「貴国は負けて無条件降伏をしたのだから、まだまだ帰るのは早い。」と云うのであった。
日本人は一人でも労働力としての資源であったから、逃亡者は銃殺すると云っていた。ソ連側の船で
日本へ送り還す事などもってのほか、日本人を終戦と同時に送り還す意志はみじんもなかった。
捕虜は働かせる為の家畜と余り違わぬ存在なのだ。
小林会長の寝食を忘れた努力も、帰す意志のないソ連側との会談では、少しも進展しなかった。
小林会長の苦慮の中に月日は過ぎて行った。秋乙を出てから一ケ月半にもなるのに帰還のめどはどうして
も立たなかった。
鎮南浦の倉庫の生活が長びくにつれ、倉庫の住民の生活は苦しく、倉費の割当すら払えない人が増えて
来た。売り食いとわずかな貯えに支えられた生活は、心細い限りであった。
登勢は〃秀坊の分もお粥の配給はある筈なのに、どうも配給が少ない〃。と思っていた。足りない分を
卵やりんごを買って補っても食事は充分でなかった。
或る日、登勢は思い切って、配給係の村上元一等兵に申し出た。皆の目前で飯盆にお粥を入れていた村上
さんは、「吉田さんところは三人でしょう。」
「いえ、四人です。四人分の支払いをしています。」「四人?。」
村上は自分の思い違いを悟ったが、
「四人でも一人前に使役に出る者も居ないで、四人だと大きな口を利くな!。」
男手のない登勢は、使役の事を言われると弱かった。 「すみません。」
悲しくなって下を向いた。横から岸本元上等兵が、
「誰でも思い違いはあるよ。いいから今からでも四人分配給すればいいじゃないか?。」と助言をしたので、
それから少しだけお粥の配給量がふえた。
生活が苦しくなるにつれ、いざこざは食事だけでなく盗難も増えて来た。登勢達の席は通路の横なので
度々被害にあった。或朝目を覚ますと枕元に置いた筈の純毛の手編の繁一のセーターが無くなっていた。
それは昭和十九年に渡鮮する時、妹の紀代が純白の地に茶色の犬を編み込んで可愛く編んでくれた物だった。
誰もかもが売り食いの毎日なのである。毛糸の純毛物は高く値がついたので盗難の対象となりやすかった。
登勢は盗難の用心もしなければならなくなって、脱いだ衣類もいちいち袋に仕舞う様にした。
盗難ばかりでなく四月も半ばを過ぎてくると、暖かくなった為もあって、虱がごそごそと肌着につき始めた。
洗濯した秀坊のガーゼの肌着の二枚袷の間に、どうして入り込んだのかはさまってそのまま洗濯されていた
りする事もあった。 登勢は思った。
〃早く帰らないと虱からチブスが流行するのではないだろうか?。私がチブスに罹ったら万事休すだ。
一日も早く元気な間に母の処へ帰らねばならぬ〃。
優しい色白の母の顔が登勢の瞼に浮んで、ぼーと霞んで泪の雫となった。〃故里の母〃
それは彼女の心のともしびであった。登勢が女学生の頃、流行していた〃谷間の灯〃と云う流行歌に
「我が子帰る日祈る老いし母の姿、谷間灯ともし頃……」と云う歌詞があった。
〃母が待って呉れている〃それは彼女の大きな支えであった。
一日千秋の思いで、帰国の日を待つ日本人の期待を一身に荷なって、小林会長は愈々最後の決断を下す
時期が来ている事を悟った。
最後の非常手段として38度線の越境であった。ソ連側には「食べるに困る者や、老人を抱えた家族を
南鮮へ移住させるのを許可してほしい。夜、目立たない様にして38度線を越えるから逃亡者として射撃
しないでほしい。ソ連兵には日本婦人ダワイを取締って貰いたい。」と申し入れた。
最初秋乙の全員の引揚げであったのが、表向きは女、子供、老人を先に帰すと云う事にして健康な若者は
秋迄残留と云う条件付でやっと許可と云う事になった。許可は許可でも表面に出せない許可で黙認であった。
登勢達の倉庫で、その日小林会長の報告会が行われた。登勢等は皆国粋主義的な思想に培かわれ、多かれ
少なかれ、その思想の持ち主であった。一米六十糎に達しない小柄な小林会長の前に全員が集まって会長
の話を一言も聞き洩すまいと耳をかたむけた。
「これ迄におこなった引揚に関しての経過報告で御存知とは思いますが、ソ連側から送って貰う事は
早急に参りませんので南鮮へ移住する事を黙認して貰う事になりました。
鎮南浦へ来てからも種々と交渉にあたって来ましたが引揚は実現せず、その間にも三才以下の四百人
近い幼児が死んで逝きました。
一日も早く内地へ帰らないと、疾病の為、あたら稚い命を落す事になるでしょう。幼児はかりでなく、
大人もじっと死を待つより、一日も早く元気で内地へ帰るべきです。
敗戦の焦土と化した日本の復興は我々と次代を担う若い肩にかかっています。
一人でも多くの若い命を持って日本へ帰りましょう。それには自力で38度線を越えるしかないのです。
南鮮へ行けば、米軍によって内地への送還がされていますが、38度線緯北の北鮮、満州は終戦と同時に
音信を絶って、日本内地では皆が心配しています。」
そこで小林会長は姿勢を改めて、「畏くも上御一人には、音信を絶った寒さ厳しき明け暮れの、
異国に暮す民草を御案じ給い、引揚促進を申し出て下さっています由です。」と云って、
〃寒き異国の民をおもう〃と云う意味の御製を不動の姿勢で朗詠した。
小林会長の朗詠を聞いて多くの人は感泣した。
「交渉にはお金が入要です。地元の了解を得る為にも。船や乗物も入要です。帰国する人と、残留する人
とのより分けは各班で話合って定めて下さい。皆で力を合せて協力して、全員が命を内地へ持って帰り
ましょう。そして祖国再興に努めましょう。お金のある人は供出して下さい。
帰国する人は赤ん坊の負担金はいりませんが、幼児も大人も分担金一人二百五拾円です。持てない
品物は残留する人の為に置いて行って下さい。こまかい事は各班で班長の取り仕切りに一任します。
協力して皆無事で帰国教しましょう。これでお話は終ります。」
普通の帰国ではない。移住と名を借りた脱走なのだ。越境と云う事柄の別名なのだ。
緊張と昂奮の静かなざわめきの中を席に戻った人々は、皆それぞれの惟いの中に、かたい決意と共に
明るい希望の灯をともした。
古角元上等兵は登勢と同県であった。吉田軍医の生家は代々(十六代)医業の家で宍粟郡から移り住んだ
祖々父が病院を開いた神崎郡と古角の故郷とは隣合せであった。16班で幼児を三人も抱えているのは
登勢だけであった。16班全体の責任として誰が38度線越えに良子を背負う事に話が定まった時、古角は
申し出た。 誰も異存はなかったが、大山部隊長夫人の荷物を持つ責任が古角にはあった。古角は良子を
大山夫人の荷物の上に背負う事を希望した。以前少年の頃肋膜炎を患らった既往症を主張して残留は
無理と云う事に話が定まった時、残留組への手前もあって、登勢を援けねばと思った。大山夫人も心よく
承諾して話は決まった。登勢は感謝で一杯であった。せめて分担金だけでも支払う事を大山夫人に申し
入れた。 皆の親切が身に沁みた登勢は最後迄持っていた黒地に梅とたちはなを染めぬいた綸子の羽織と
薄茶の地にコバルト色の霞のたなびく中に満開の桜花と花弁の舞う春燗漫の山繭の着物、純毛の手編み
ハーフコート。
綸子絞りのねんねこ伴天等々を全部日本人会や残留組に寄附をした。登勢の負担金(千円)の余分に持って
いた二千円は萩原夫人に借した。
残ったおしめと水筒と飯盒、親子の肌着、それは三人の子を連れて旅をする最低の限界の持物であった。
子供の丹前は真綿入りで軽く、かさも低いので繁一に持たせるリュックに入れる事にした。毛糸編みの
子供服を二枚、寒い日の為にリュックに入れた。
最後迄残るという小林会長。残留組の小吉実利、岸本、藤沢等に陰ながらの別れを告げ、秘かに埠頭を
出発したのは四月二十九日の天長節(天皇誕生日)の朝まだきであった。16班の班長は樗木、副班長は
古角であった。
リュックを背負った繁一を前にして、良子の手を引き、茶色の捧縞にすみれを飛ばしたおめしのモンペの
上下に、ズックの運動靴、左右の肩から袋を吊り下げ、(袋にはおしめが入れてある。)その上に
水筒を肩にかけ、腰の後には飯盒を結わいつけ、あわしまさん(ほこらを背中におんぶして様々のふだを
ぶら下げたもの。)という恰好の上に、背に秀坊をおんぶ紐で負い、上から亀の甲結いこを羽織った登勢は、
38度線越境のマラソンの決勝戦のスタートに立った様な昂奮を感じながら倉庫を出た。
倉庫と反対側にある桟橋から登勢達が乗り込んだ船は、小型の汽船であった。二隻の汽船に一杯の人数で
ある。16班は一番最初の出発なのだ。
貨物船まがいの汽船は、海へ向っていた方向を変えると白い泡をだくだくと吐きながら大同江を逆登り
始めた。 登勢達の居た倉庫も建物の蔭で見えない。
夢多い乙女の頃、登勢が好きで寮友と一緒によく歌った歌、滝蓮太郎の「花」が余りにも違う故に、
春のすみだ川とは何もかもが違う為にか、登勢の心に蘇った。
川風は冷たく登勢の心の感傷を吹き過ぎた。緊張感が、帰国への希望と交錯して、前途の多難を思わせた。
登勢が船室と云うより船倉と云う方が適している様な船内へ下りると、そこはもう人で一杯であった。
荷物を置いてその上に、腰かけるしか場所はなかった。
そのうち、男達が甲板へ上って行って、少し場所の裕りが出来た。秀坊を背から下して、二、三時間した頃、
ドカドカと音がして、男達が下りて来た。
「雨だ!!。吹き降りだ!。」船内は一層狭くなった。
せっかく下した秀坊を、今度は、膝に抱き上げねはならなくなった。その上階段の蓋板の間から、雨もり
がして、バケツで受けねばならない仕末となった。その日は一晩中、吹き降りがつづいて、次の日は
小降りとなったが、水量が増した為、流れに逆らって、進む船は大分遅れた。
それに何と云ってもボロ船である。遅れて当然だった。
二日二晩降り続いた雨は、三日目の夜明け前から止んだ。雨が止むのを待ちかねて、男達は甲板へ
昇って行ったので、船内は少し余裕がある様になった。半分中腰で、それ迄、三人の児を抱いていた
登勢は、肩も腕も腰も痛かった。丸くなって子供を抱えた形にでも、横になるのは久し振りで、登勢は
疲れが消えて行く様な気がした。
船が着いたのは、昼前であった。船から地面へ渡した板梯子の上を、荷物を腰に、秀坊を背に、
良子を腕にのせて、渡るとそこは湿地であった。靴が、ずるずるとめり込むので、繁一が泣き想な顔で
しがみついて来た。
「靴に泥がついた位で泣いては駄目!一。」
可愛想でも、甘い顔は出来ない。「泣く児は放って行くからー。」
良子も夢中で、しがみついて来る。
登勢の腕も抜けそうな程痛かった。そして重かった。僅か五十米余りの距離が百米にもいや、三百米にも
思われた。皆に遅れない様にと、やっと平地に着いた時には、汗びっしょりで、全身で息をしていた。
其処は何という所なのか、何も分らないが、沙里院へ行く駅の近くらしかった。
地元民の世話で、やっと貨車が借りられたと云うので駅迄、歩くのだという事であった。折から空は、
時雨はじめて、小さな街に入った頃には、断髪の登勢の頭髪からも、雨が雫となって、落ち始めていた。
道路の両側に並んで、見物している地元民の眼を意識して、登勢は情なかった。
白い冷たい眼。憐欄のまなざし。侮蔑の眼。様々の眼がそこにあった。
涙が頬を伝っては、足元に落ちた。
額には汗が流れ、雨と汗と涙で、登勢の顔は、ぐしゃぐしゃであった。
声も上げず手放しで、泣きながら登勢は歩いていた。
それは〃黄州〃だったのか?。〃安岳〃だったのか、何も分らないが、最初に乗った貨車は、馬を運ぶ
貨車であった。 時雨の止んだ後の空気は、湿気を帯びて感じられ、窓は小さな格子窓しか無かった。
薄暗い貨車の横板の間には、馬の尾の毛や、たてがみが、挟まってぶら下っていた。床には、五糎程の
厚さに、馬糞が積って乾燥していた。
余りにも汚くて、腰を下す事も、荷物を置く気にもなれなかった。臭気と湿気で、貨車は〃むつ〃と
していた。軍馬もこんなあつかいを受けていたのかと、今迄知らずにいた事が、大変悪い事をした様な
気もして、馬並に落ちた現状を、甘んじるしか仕方無かった。
途中で、やっと普通の貨車に乗り換えた時には、ほっとした。沙里院が何処だったのか?。黄州が何処
だったのか?。地名も何も判らないが、お粗末な狭い小さな貨車でも、馬糞と同居しなくてもよいのが、
皆を喜ばせた。
貨車は山の方へと行くらしく、麦畑の中を、のろのろと進んで行った。
貨車を降りると、再び歩き始めた。
話をするのも大儀で、一言も云わず、皆は黙々として歩いた。夕方近く迄歩いて、小さな部落にたどり
ついた。その夜は部落の民家に、泊めて貰う事になった。
おふとん無しの、着のみきのままの、ざこ寝である。幼児を連れた登勢達は、〃オンドル〃の部屋をあて
がわれた。〃オンドル〃の室で寝るのは、登勢達には全く一年振であった。そして最後の事になるのだ。
寿し詰に、ごろ寝して眠ったその夜。
登勢は、とんでもない失敗をしてしまった。
昼の旅の疲れで登勢は、正体もなく眠ってしまったのだ。夢うつつの中で、登勢の嗅覚は働いた。
大変だ!。しまった!。 秀坊や、他の人々を起こさぬ様に、そおっと良子(二才四ケ月)の方へ向くと、
良子はよく眠っている。が嗅いの本家は良子なのに。
眠くて眠りこけそうになりながら、良子のおしめを取り替えた。
良子は、病後の衰弱に栄養失調が重なって、下痢をしていた。障子紙を買って来て、作った登勢の手製
の紙おしめを洩れて、持数少ないカバー迄よごれていた。
夜は便をおとす事は、殆んど無いのに。
幼児なりに、良子も疲れていたのであろう。
しかし、臭かった。部屋中に嗅いが、広がらない様に、手早く包んでカバーも一緒にそっと外に捨てた。
誰一人起きる人もなく、昼の遠道を歩いた疲れに、ぐっすりと皆睡っていた。
登勢は胸を撫でおろし、嗅いのを、気にしながら再び睡った。
翌朝。 皆で持ちよったお米で、お握りを作り、全員に分配して、民家を後にした。
それから先は、裏道に入るので、山道が多かった。細い牛車が、やっと通る処を選んで、六才迄の幼児で
(数え年)、親が背負う事の出来ぬ児は、闇でやとった牛車に乗せる事にした。
繁一は、十二月末生れで、一週間でお正月を迎え、数え年では七才であった。満で云えば、五才四ケ月
なのだが-。 数え年で早生れの七才の靖夫も、圭子も繁一より早く生れているのだが、牛車に乗る組
になった。 僅か、一週間の差で繁一は、大人と一緒に歩く事になった。
牛車に乗せられた幼児達は、母親から離されて、
「かあしゃん。かあしゃん。」と泣き叫びながら、揺られて運ばれた。
繁一は、妹の良子の泣き声が、後からついて来るので、気になって仕方がなかった。
〃「良子ちゃんを売ってちょうだい。」と云ったロスキーマダムの処へでも、連れて行かれないかしら?。”
と心配になって、「良子は?。」と何度も、登勢の顔を見たが。登勢が、こわい顔をして、
「良子は牛車で行くのだから、心配しないで、さっさと歩きなさい。」と云ったので、何度も良子の
乗った牛車の方を見ながら歩いた。
その中に、徒歩で行く登勢達が、狭い山道の近道に入ったので、牛車の姿は見えなくなった。
「かあしゃんー。かあしゃんー。」と云う泣声も聞こえなくなった。
山道を、登勢達が一里程歩いた頃。 突然。横道から片手を上げて、ソ連兵士が現われた。
「クター、ヴィイヂヨーチェ(何処へ行く?.)。」皆、一瞬、どきりっとして立ち止まった。
「ソルダート、ニエト。(兵隊はいません)マーリソキイ、イ、ジエンシナ、イ、シストラ・モノーガ
イェスチ。フラートニェト。(子供と婦人や友達ばかりで男はいません)
ブラート・イ・パパ、アラボート、ロスキー(兄弟や父は、ロシヤの仕事をしています。)」片言まじりで、
脱走兵では無い事や、女子供ばかりで生きて行く事が出来ないから、歩いて南へ下る事を説明した。
「マニエタイエズチ?(お金は持って居るか?)。」橋元世話人が、三百円を渡した。
それは袖の下の小遣いかせぎに現われたのだった。お金を受取ると、
「ハラショー。イヂョーチェ。(元気で行きなさい。)」皆ほっとして歩き出した。
暫く行くと、又別のソ連兵が現われた。再び、袖の下三百円が支払われた。
前後、合計三回ソ連兵士が現われたが、その度に三百円で無事に済んだ。
繁一は、埠頭を出てから、ずっと、一人前によく歩いた。
雨の上った後は、急に気温が上昇して、繁一は鼻の頭に、一杯汗をかきながら歩いた。
咽喉のかわきをおぼえても、水筒はもう殆んど、空になっていた。皆、大分疲れていた。その中に、
平地に出た。 白い民族服の地元民が、沢山集まって、洗濯をしている河が見えた。
地元民から大分離れた、余り目だたない場所を選んで、暫く休憩する事になった。
登勢は急いで洗濯をした。
前日は、七里程歩いたが、この日は、三十八度線に備えて、あまり無理をせぬ行程なのだった。
歩いて行く右手には、菜の花が咲いて、雲雀が鳴いて、時は五月!一。皆は、
〃これが、脱走でなくピクニックなら〃と、思った。
「愈々、三十八度線に近づきます。この山を越えたら、もう少しなのです。」山道に入って
間もなく、急に前方の人々が、駈け出した。「水!!」「水だ!!」谷川だった。
澄みきった水が、静かな音をたてて、流れていた。
世界のあちこちで起きている、人間の浅ましい相剋に関係なく平和なせせらぎの旋律は耳に快よかった。
川の水ではあったが、皆、しゃがんで、水を口に含んだ。甘露。というにふさわしかった。
水筒にも、水を満たした。菜の花も、せせらぎの水も総べて、神の恩寵であった。皆は活気を取り戻して、
歩き始めた。
登勢が、棒切れと、背のおんぶ紐を張った、即席移動物干しの洗濯物が、登勢の背で、五月の薫風に、
はためいた。 色白い秀坊は、日焼けして、頬の柔らかい、皮膚に、二つも水泡が出来ていた。
登勢の後は一中隊の北野元中隊長夫人であった。繁一と同じ年の圭子と云う可愛いい女児と、良子より
二才上の美智子と、三女泰子が居た。
鎮南浦を出た時、船の座席の処へ雨漏りがして、運悪く、美智子は、雨に濡れたのが元で、風邪を引いた
らしく、沙里院の近くで、時雨に打たれ、風にいたぶられたので、一層風邪をこじらせていた。
北野夫人は、親から離すに忍びず、牛車に乗せるのを断わって、暑い汗を流しながら、背に負って、
ねんねこ絆天を上から着て歩いていた。高熱の体は、気温が上っているのに寒いらしく、又熱の為
に喉が乾くのか、「おぶー(お茶の事)」「おぶー。」 とお茶をせがんでいた。
熱があるのに、風に吹かれて、風邪から肺炎を起こしたらしく、声も絶えだえに、「おぶー。おぶー。」
と云うのが聞こえた。北野夫人は、胸も張りさけんばかりに、辛く、切なかったが、
何とも手のほどこし様が無かった。 そのうち、眠ったのか、余り声がしなくなった。
山道が、終った処に、小さなお堂があった。 そこで、暫く休憩する事になって、北野夫人は美智を
背から下した。 水筒を出すと、美智は小さな声で、「おぶー。」と云った。
しかし、一口飲むか飲まぬかで、水は、だらだらとこぼれた。
美智の顔は、小さな口を開けて、がっくりと、うなだれた首は、再び上がらなかった。
「おぶーよ。お茶よ。沢山お飲み。」 狂気の如く叫ぶ、北野夫人の声が、空しく響いてー・・・・。
登勢も柳沢夫人も涙を止める事が出来なかった。
亡骸は、近くの民家で、スコップと、コッパを借りて、樗木が、手伝って、近くの山に埋めた。
犬が堀りおこさない様に、深く埋めた。
夫人は、荒土が顔にかかって、埋まって行く美智が、哀れで、涙ながらに土をかけた。
此処は何処なのか?。お墓参りも出来ない。
三十八度線を前にして、親に世話をかけまいとして、死んで行った様にも思われて、一層不憫であった。
今まで、全身にかかっていた重みが、総べて空となって、北野夫人の手に僅か一握りの美智の頭髪が
残るのみだった。
三部::第16章:皐月闇
十六、皐月闇
昔の駐在所の様な建物にぶらさがった看板に、海洲と云う字が書かれているのが、目についた。
登勢は、〃この辺は海洲だな〃と思った。
そこから二キロメートル程歩いた頃、橋元世話人は、誰かを探しに行った。
南を向いて歩いた様にもあるし、東へ歩いた様でもあるし、登勢達には何処とも判らなかったが、
愈々三十八度線に近づいたらしく、越境の為の道案内人に、連絡に行ったらしかった。皆、そのまま、
休憩する事になって、道端に腰を下ろした。
愈々、今宵は三十八度線を越えねばならない。
体の震える様な緊張感で、皆は、日の入るのを待った。前の人を見失わない様に、間を空けない様に、
声をたてない様に、子供の泣声を出ささぬ様に、最短距離は、河と山なので、頑張って越える様に、
と数ケ条の注意があった。
宵闇の静かに迫る頃〃。
橋元省三世話人は、朝鮮語の通訳と、皆の預かり金と案内人を連れて、先頭に立った。
落伍者を出さない為、綱が引っ張られた。けれど綱は、皆が引張ると重くて足が進まない。却って皆が、
歩きにくいので、前方から、「綱をはなせ。」と伝言が、さややく様に伝わって来た。
古角芳男は、16班の先頭に立って、大山元部隊長夫人の、衣類や貴重品を入れた大きなリュックの上から、
良子をおんぶ紐で結いつけて歩いていた。そのすぐ後に、繁一、秀坊を背にした登勢、上敷領夫人(夫人は
敏子をおんぶしていた。)。
そして、16班の最後は、柳沢夫人、樗木16班長であった。一人の落伍者も出さない様に、落伍者は帰国
の希望も、生命の保証もないのだから。
どんな事があっても、子供を離してはならない。登勢は思った。
〃若し秀坊が泣声を出して逃げ遅れる様な時は?。繁一と良子は?〃
一人子供を見失う事は、四人の親子が死ぬ事であった。
山道を登ったり、下ったり、先へ行く者が止まると、後の音程、長い時間留る事になった。
登り坂の続いた後、暫く下った。月は無く、お誂え向の闇夜であった。
小川で蛙が鳴いて、初夏の訪れを思わせたが、今はそれどころでは無く、前を行く古角に負われた良子
の背をじっと見つめながら、繁一をかばいつ、歩いた。
声を出す者もなく、幼児も親の気持がわかるのか、泣声をあげる児も居ない。繁一の手をひき、小川を
跳びこえた。時々止まっては進み、進んでは止まる。
「クトー(ソ.(誰だ)」「チオ?(どうしたのか?)」行く手に、突然現われた白い服の三人の人影!!。
「出た!!。」「ロスキーだ!!。」
誰もが夢中で後戻りをした。そして逃げた。
散りじりに隊伍が乱れた。何一つ定かに判らぬ暗闇の中で、点呼を取る事になった。橋元世話人以下
二百三十人程は、先に行ってしまったらしい。案内人と通訳とお金と一緒に。残された登勢等は途方に
暮れた。 後に残された五十人程は、今からの対策を相談することになった。
樗木、一幡薬剤師、保給廠の芦田、元木の主立った男達が、小さな声で皆の意見を聞いて廻った。しかし
誰にも良い思案のある筈もなく綾目も分らぬ五月闇が皆を包んだ。
登勢は、これからの方針が、定まる迄と思って、荷物を置いて、秀坊を背から下した。 秀坊を抱いて、
ふと見ると、五月闇の中で、荷物が静かに動いて行くではないか?。 さっと手を延ばして、払った手に
手ごたえがあった。荷物を引き寄せて、登勢は、その上に腰を下した。引揚者の荷物を闇に紛れて、
持って行く地元民があるのだ。深い暗闇の中を、不安な時が流れた。
小柄な男の人影が近づいて来て、柳沢夫人に、「道を識っていますから、案内をしましょうか?。」
と話しかけた。
柳沢夫人が、「この人が五百円貰えば三十八度線の裏道を案内すると云って居られます。」と云って
男の人を、樗木に紹介した。
此の場合、厭も応もなかった。早速、お金が集められて、隊伍を整えなおし、二列で歩き始めた。
先程、現われた白い服の三人は、病人を抱えた家族が、小川を渡る時に遅れて、道を間違って進んで
いたので、それを教えたのだと云う事であった。
先頭が行ってしまったので、何も判らぬ登勢達は、道に迷ったのであった。
道案内に現われたのは、鹿児島に行っていて、終戦で内地より帰り、三十八度線で、道案内をして
いると云う人であった。 登勢達は、危いところを助かった。
少し進むと、機関銃の音が聞こえ始めて来た。
空砲とは云え、「パリパリパリ。パリパリパリ」と云う音は、気持の良い音では無かった。
先頭から、「皆、人数は揃っていますか?。」という連絡が来た。しんがりを務めている樗木が、
「全員異常なし。」と小声で合図すると、「これから礼成江を渡ります。ここが一番浅い処です。
静かに、早く急いで渡って下さい。」
愈々、最大の難関である。
ソ連国境警備兵の兵舎の燈火が、木の間隠れに見えた。それは恐怖に人を陥れる威嚇の力を持った
燈火であった。 折から兵舎に飼っている犬の遠吠えが聞こえ始めた。
登勢は一瞬、足がすくむ思いがしたが、思いきって、流れに入っていった。「しーちゃん頑張るのよ!!。」
と私語いて、繁一の掌を強く握りしめた。飛石づたいに、浅く見える処へ、繁一を歩ませて、水をかき
分ける様にして、河を進んだ。
水は、登勢の膝下まであった。水の流れに足をとられた繁一がよろめいた。あわてて、つないだ掌を
力一杯上にあげたが、間に合わないで、深みに足を入れてしまった。
腰からずぶ濡れである。 「大丈夫だから気をつけて、ころばぬ様に早く渡るの。」
登勢には、瀬音のざわざわと云う音が、いやに大きく感じられ、胸がどきどきしはじめた。
〃落ちつくのだ!。そして素早く。〃
自分の心を自分で力づけながら、繁一の手を引いて、水を分ける様に進んだ。
さあ-とサーチライトの光が空を走った。河巾は、もう後僅かになった。心が急いだ。兵舎の燈火も犬の
遠吠も、益々近づいて感じられたが、もう恐ろしくはなかった。
繁一の足も登勢と一緒に、対岸の土を踏んだ。
次は山道だった。もうがむしゃらに黙々と歩いた。いや、よじ登ったと云うべきだ。
胸苦しい程急な坂道を、残されまいと必死になって歩いた。
犬の鳴声も、もう追って来ない。
あと、一息と云う所は、急な傾斜であった。
紙一枚の重さでも、身軽くなりたい一心で、貯金通帖迄も、最後になって捨てた人もあったのだ。
頂上へ昇りきると、上は割合平になっていた。
案内人は、全員が来るのを待っていた。
全員が揃ったので、樗木に云った。
「皆揃いましたか?。私早く河を渡らないと夜が明けたら、ロシヤ兵につかまります。
帰り急ぎます。皆さん、もう大丈夫です。ここから真直ぐに道を下りて行きなさい。アメリカ兵
が道を教えてくれます。ここで一休みして寝なさい。」
樗木は、礼を云って賃金を支払った。
「元気で行きなさい。もう四時を過ぎています。私、急ぎます。」案内人は、身軽く駈け去って行った。
誰かが、 「これで、やっと、四(世)時二十分(に)世に出たぞ!!」と、しゃれを云った。
皆は緊張がとれると、心身共に疲れはてて、言葉も無く、倒れた様に転んでいた。
登勢は、礼を云って、古角から良子を受取ると、小さな木の根元で寝させる事にした。 繁一の濡れた
衣服を着変えさせた。繁一が、「もう、ロスキーは追って来ない?」と心配顔で聞くので、
「もう大丈夫よ。」と云うと、返事を聞くやいなや、繁一は、そのまま眠りこけてしまった。
子供の稚心にも、一大難関を突破した安堵に、それは終戦以来と云っても過言ではなく、心からの
安らかな眠りだったのであろう。
その中に、東の空が白み初めて来た。 それは、何とも気持の良い夜明けてあった。
晩春ではあったが、清少納言の〃枕草子〃の巻頭の一節。
(春は曙、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて紫だちたる雲の、細く棚引きたる。)が、
登勢の頭に浮んだ。
登勢の心にも紫の瑞雲が棚引いて、蘇生した様な喜びが湧き上って来た。
丹前一枚を掛けぶとんに、山土の褥(しとね)で熟睡する三人の児の横で、登勢も何時しか
睡りに落ちていった。
樗木は、16班の班長として、責任を果したと云う安堵よりも、全員、無事に38度線を越えた喜びで
一杯であった。
疲れている筈なのに、神経は冴えて睡れぬままに、白み初めた空の、美しい朝雲を眺めていた。
やがて、真赤な太陽が、御来光と云う言葉そのままに、輝きながら姿を現わした。
宇宙の神秘な祝福であった。
二、三時間眠った全員が起きるのを待って、全員揃って山を下る事になった。
地理は判らなくとも、気分的に余裕が出来て来た。
暫く、山を下って、少し道中の広い処へ出た。
前方で、登勢の名を呼んでいる。登勢が出て行くと、そこは遮断機が下りて、丸で汽車の踏み切り
の様になっていた。
米兵が二人と、韓国人の少年が一人居て、検問する所であった。登勢は、とんだ事になったと思った。
一幡薬剤師が先に来て居て、「刀とお金を出すらしいです。」と云った。米兵は、登勢の顔を見ると、
いきなり問いかけて来た。「ホエア、デジュカムフローム?(何処から来たのか?)」
「平壌。(私達の先頭は、先に行きましたが、私達は一緒の団体です)ザトップオブマイグループ、
ゴーンァウェー、バットウィァーツゲザーグループ。」「イフユーハヴァナイフ、オアサムシング、
ハンドイットツウミー。(刃物を持っていたら出しなさい。」
「ウイドントハヴェニイナイフ、アットオール。(刃は持っていません。何も有りません。)」
横から、チヨコマン(少年)が、「刀を出しなさい。」と口添えをして来た。
〃この少年は日本語がよく分る〃と登勢は気が楽になった。
小さな果物ナイフを一幡氏が差し出した。
少年が、再び、「刀は無いですか?」と云った。登勢が、「ジスナイフ、オンリーワン。
(このナイフ、ただ一つです)。」と答えると、米兵が、「イフユーハヴェニイマニイ、ハンドィツト、
トウミイ。ギブミーオール(お金があったら全部出しなさい。)ギブ…ーオールザラツジャン、
・・リタリー。ノートユーハヴ(ロシアの軍票は全部出しなさい。)」
登勢は、お金を全部出してしまっても大丈夫なのかしら?と不安に思ったので、一幡氏に目顔で
合図して云った。 「ウィアベリーブーア、ノーマネー。(私達は大変貧乏でお金は有りません)。」
「アイルギウニーレシート。イフユハンドミー、エニイマニイ。エールビーギヴン、ジャパニーズ
バンクノート、イン、イクスチェンジ、フォーマイレシート、ウェンユーリターンツウジャパン。」
側で少年が、「お金の受取りを渡しますから、後で貰って下さい。日本でお金と代ります。」と云った。
「トニー。お金。」と云って、ロシヤの軍票を見せたので、一幡氏は、その由を皆に伝えた。少年は、
すばやく、皆が出した軍票や、日本紙幣を数えると、米兵に手渡した。
米兵はゆっくりしていた。
軍票は僅かであったが、軍票を持っている人は、全部出した。
日本円は、人によって出す人と出さぬ人が出来た。
お金のうち、日本円は殆んどの人が肌着に縫い込んでいたので、(ソ連兵やら現地人から取られる
のを予防する意味で)一層手間取った。
米兵が、ゆっくりと紙幣を数えて、証明を書き、
「オッケイ。レッツゴー。」となったのは、それでも二時間近くたった頃だった。
米兵と少年に道を教わって、路地の様な処を通り、二里程(一里は四粁程)歩いて、青丹の駅に着いた
のは、五月晴の空から照りつける太陽熱で、ホームが熱を反射しているお昼前であった。
ホームは列車を待つ人で一杯であった。屋根のないコンクリートのホームは、溢れる程の人と、
照りつける五月の光に熱気をはらんだ様だった。
皆コンクリートの上に、しゃがんだり、腰を下して、乗車の順番を待って居た。登勢達が、
ホームヘ入って行くと、離れた処から声がした。 「あー。来た来た!。」
「よかった!。」その声の主は橋元世話人達であった。
橋元省三世話人の姿を見とめるや、保給廠の芦田は、人々を押しのける様にして進んで行った。
そして、「来た。来た。とは何だ。この野郎!。」と云いざま、橋元世話人(引揚団長)の胸倉を
むんずとつかんで、鉄拳を浴びせた。
「自分等家族だけ良ければいのか?。道案内人と、通訳を連れ、全員のお金を持って自分等だけ
先に行った。その責任を取れ!。」「まあまて、待ってくれ!。」
登勢達は驚いて、揉み合う二人を呆然と眺めていた。
誰かが仲裁に入った。芦田も橋元を殴った事で幾分怒りが治まったか。手をはなした。
「これで一寸胸がすいたぞ〃一。」 誰かが大きな声を出した。
それは、闇夜の38度線で、置き去りにされた一行の、偽わらざる心境だったかも知れない。
とんだハプニングであったが、〃内地へ還れる〃〃その思いが、皆のわだかまりを解いた。
皆、以前の融和した一団となって、汽車の順番を待った。
京城の駅で、頭髪も真白になる程DDTを一杯かけられ、京城市内の本願寺に着いたのは、
その日の夕方であった
三部::第17章:白雲
十七、白雲
京城に着けば、すぐに帰国出来る、と思っていた一行は、出発の日時の発表を、今晩か?、
明朝か?、と心待ちしながら、本願寺に着いて、もう三日目を迎えていた。
三日目の昼過ぎ。
京城日本人会から、楽団が、大太鼓、アコーディオン、クラリネットを持って、慰問に現われた。
最初に、団長の挨拶があった。
「長い間、外地で御苦労様でした。敗戦によって、外地に居た者の苦労は、一層酷しくなりました。
引揚の日本人の憔悴しきった様子を見て、何とか、もっと明るく、少しでも以前の元気を取戻して
頂きたく思って、拙い歌をお耳に入れに参りました。楽器の数も揃わず、未熟な芸で御座居ますが、
団員一同力一杯やらせて頂きます。
皆様は、間もなく内地へ還られると思いますが、本日は、歌で一足早く日本へお帰り下さいます様に。
最初は母なる国の日本の〃子守歌〃 次は日本情緒豊かな、〃野崎参り〃や、〃岡を越えて〃等々
です。」
一年近く歌もなく夢もなく、唯生死の境を、彷徨うような恐怖の中で、生活して来た登勢達にとって、
それは思いがけない命の洗濯と、心の栄養剤であった。
廿才位の女の人が二人、交代で歌を歌った。「岡を越えて行こよ、真澄の空は朗かに晴れて楽しい、心。
鳴るは胸の血潮よ:….…:.」殆んどの人達が、本堂の板の間に集まって、久しぶりの歌に耳を
かたむけていた。 登勢も繁一も良子も、そのメロディーを全身で聞いていた。
外は五月晴れで、青空を白いちぎれ雲が柔らかな綿を浮べた様に流れていた。
薫風は若葉を撫でて吹いていた。空の青さが、歌詞の明るさとメロディーの軽快さに調和して
聞く者の心に沁みて行った。
「最後に、内地で皆に歌われている歌、〃りんごの歌〃」
「赤いりんごに唇寄せて、黙って見ている青い空、りんごは何も云わないけれど…….」
歌を聞きながら、涙が溢れて登勢の頬を、流れ落ちた。戦争に敗けて黙って空を見ている悲しみ
なのか?。りんごの気持が判る悲しみなのか?。理由の判らない涙が、留る事なく流れた。
繰返し〃りんごの歌〃が歌われて、会は終り、慰問団は帰る事になった。
「お母ちゃん!。僕の靴がない!。」
我に返った登勢は、驚いて本堂を出た。
うっかり置いたのが悪かった。手に持っていなければならなかったのだ。
泣きべそをかいた顔の繁一が、「ちゃんと此処に置いていたのに。」と云った。
無くなった物は出て来ないのだ。
繁一のズックの靴は、38度線手前の部落で、村の長老が、「時計。万年筆。純毛製品。
はいている以外の靴。絹製品を此の部落に置いて行って下さい。その代りに裏道を通してあげます。」
と云った時に、はき替えたばかりの靴なのだ。
仕方がなかった。内地へ帰る迄、繁一は跣で歩かねはならなくなった。
四、五日もすると、本願寺も引揚者で一杯になり、最初に入った者は出発する事になった。
行く先は何処?。愈々帰国なのか?釜山?。移動の度に、皆は胸をはずませるのだがー・・・・。
京城で乗った汽車は、開城に向っていた。そこで又、DDTをかけて貰って開城から盧城に向った。
盧城で降りると、米兵に案内されて行った処は、小高い丘の上であった。
登り道を皆、あえぎあえぎ歩いた。 何時も空腹なので、歩くのは非常に疲れた。
たどり着いた処は、平素演習場なのか?、と思う程広い丘であった。
待っている間に、天幕が張られて行った。天幕の部落が作られた。
地元民が筵を売りに来たのを、まとめて団体で買った。次々と筵が運び込まれて、各人が一枚
二拾円を支払った。 鎮南浦と同じ筵の生活が始まった。
翌日も、その翌日も、天幕は張り増されて、入居者は増えた。
便所は天幕二つが使われて、男女一幕ずつ分けてあるが、天幕の端から端まで、一直線に溝を
堀った簡単なものであった。
最初の間は、巾二十五cm位であったのが、粘着力の無い丘陵地は、使用している間に、
土がくずれて、巾はだんだん広くなり、その中に五十cm位の巾となった。
使えなくなると、横に平行して、溝が一本新しく堀り足されていった。
食事はお米の代りに、とうもろこしを炊いて分配された。大きな釜で、ぐつぐつ炊かれても、
とうもろこしは、お粥の様にはならなかった。茶碗一杯のとうもろしは、親子三人どころか、
良子と繁一の二人分にも足りなかった。
何の為に、盧城の丘陵地に滞在するのか、登勢には分らなかったが、そのうちに、それは南鮮に
コレラ患者が沢山出て、釜山へ行かれなくなり、関釜連絡船?に乗れないらしいとの事を告げられた。
食物を売るオモニー(婦人)も、(おにぎりは一個が五円であった。)「品物と。ハッカー(交換)」と
云うオモニーも、監視の米兵に遮られて、天幕には来なかった。
その上、予想以上に帰国が手間どった為、誰もかれも貧しく、余分に交換する事の出来る品物も無く、
お金の持ちあわせも少なくなっていた。そして誰もが同じ様に空腹であった。とうもろこしを炊く
水が、ぐたぐた煮えているのを、余分に貰って、空腹をまぎらせたり、あかざ草を探したり、皆
それぞれに、工夫を凝らして暮していた。
とうもろこしのお湯を飲む事で、空腹は幾分まぎれても、赤ん坊に飲ませるお乳が出ないのに
登勢は 困った。幾ら吸ってもお乳が出ないので、秀坊は乳房を離そうとはしない。無理に離して
良子を排便に連れて行く時等、秀坊はしきりに泣いた。
そんな時、気の荒い職人肌の人の多い補給廠の班から、
「何処の餓鬼ぞー?。〃おギャーおギャー〃と、空腹(すきばら)にひびいてしようがないぞー。
余り泣くと、ひねりつぶすぞー。」という言葉が飛んで来て、登勢をびくびくさせた。
城の天幕に移り住んで二週間ばかり経過した頃の、どんより曇った日和の日であった。
「吉田さん!。」 「吉田さん!。」と云う声がして、登勢が天幕を出て行くと、チョゴリに
チマ(朝鮮の民族衣装)を着た上品な婦人と少女が立っていた。少女は登勢の顔を見て、「吉田さん。
どうか男の赤ちゃん、このひと(夫人)に、売って下さい。大切に育てます。」と云った。
「めっそうもない!。」(とんでも無いという意味の播州弁)驚いて登勢は叫んだ。
婦人は日本語は判るが、上手にしゃべられないらしく、登勢の番集弁は分らず、黙って立っていた。
少女の説明する処によると、婦人は子供が無く、何とか子供がほしくて、それも男の子がほしいのだ
という事であった。
地元のヤンバン(金持)の夫人で、「日本人は今食べるのに困っているから、天幕の部落へ行けば、
誰か日本人の子を売って呉れるでしょう。」と云う人があったので、この天幕へ来たのだ、と云った。
先程この天幕から出て来た人に聞くと、「赤ちゃんは殆んど病気で死んでしまったが、吉田さん
とこなら、男の赤ちゃんが居るよ。」と教えてくれたので、登勢を呼んだらしかった。
婦人の思いつめた顔を見ると気の毒ではあったが、登勢は全で児獲りが来た様な気がして、
「私は売りません。いやです。駄目!。」
と云うなり、あわてて天幕の中へ逃げ込んだ。赤ん坊を抱き上げて乳房を含ませたがー・・・・
五月の末と云うのに、冷えびえと登勢の心の中まで、曇り空が広がって、悲しみがひたひたと
音を立てて迫って来るのだった。
月が変り梅雨には未だ早いのに、雨がよく降った。降り続いた雨が晴れて、夏に近づいた事を
思わせる様な日ざしの日だった。
天幕の入口迄オモニー(婦人)が、赤い大根を売りに来た。
長い間野菜に飢えていた人々は、一本ずつ買った。誰もがほしかったので、一本しか与らなかった。
登勢は味噌をついでに買って、親子三人で大根を噛った。
赤い大根に味噌をつけて噛った味〃。
それは山海の珍味にもまさって、登勢にも、繁一にも、一生涯忘れられぬ程の美味であった。
たった一本の赤い長大根は、またたく間に無くなった。繁一は根が無くなると、葉迄噛って食べて
しまった。味噌にはお湯を入れて味噌汁をつくった。
食物を売るオモニーが、幕舎近くに来始めた事は、コレラ渦が治まったのだと、登勢は思った。
〃もうすぐ帰れる〃。と云う希望が少しずつ頭をもたげ始めた。
久し振りの晴天に、じめじめした天幕の中から、日の光、初夏の風に当る為に、殆んどの人が外に
出ていた。登勢も秀坊を抱いて、繁一や良子と天幕を出た。空は晴れて、白雲が静かに去来していた。
子供の頃、登勢の実家の病院の南の門を出ると、畑に続く裏庭があって、そこに小さな築山があった。
築山に寝転んで、空ゆく雲を眺めて、国語読本の諸葛孔明の一節、
〃白雲悠々去り又来る、西窓一片残月淡し〃 等と口ずさみながら、様々の想いをめぐらせた楽し
かった少女の頃の事が、〃ふっ〃と登勢の頭をよぎった。晴天を流れる雲は登勢を感傷に誘った。
昔読んだ本で作者の名も文もとぎれとぎれで、はっきりしないが、〃雲〃と云う文に、
〃雲は童(わらべ)を乗せて、大空を馳せぬ。童(わらべ)夢心地せり、童長じて憂き事多き世の人と
なりぬ、事にふれ折にふれ、思い起こすは彼の丘の雲なりき〃とあった事を思い出して、雲を眺め
ながら、登勢の思いは故郷に飛んでいた。
「赤土のこの丘に何時迄滞在するのだろうか?。一日も早く故郷へ帰りたい。」
疑問とも詠嘆ともつかぬ言葉が、登勢の口から思わず洩れた。
その時古角芳夫の明るい顔がこちらへ向って、駈けて来るのが見えた。「古角さん!」
と呼んだが途中で止まって、何か言っている。あちらこちらで、ざわめきが起きた。
「愈々明日出発するらしい!」急に元気が涌いた様に、人々の中に一つのどよめきに似た物が、
動きとなって、一せいに天幕へ向って足を運ばせていた。
今更、何一つ準備する物も、事柄も何も無いのに筵に一応落着く必要があったのかも知れない。
翌日。(六月十一日)の昼過ぎ。
登勢達は米兵に案内されて幕舎を出発した。赤土の丘を下りて暫くは広い道路であった。
そのうち一行は山道に入った。
出発の時刻が遅れた為に、本通りでなく近道を歩いているらしく、細い山道を一列で下って歩いた。
暫く行くと、お宮の境内の様な処に、〃龍山〃と刻んだ石があった。
やがて、ポプラ並木の街路を少し行くと、〃永登浦〃と云う立札があちこちに見えた。
盧城を出てからは、かれこれ一時間近く歩いた様に思えた。山手の住宅の横の細い道を出ると
鉄道の線路の処に出た。踏切を渡って少し行くと海岸?であった。
海岸には、上陸用舟艇によく似た型をした舟底の深い木の舟が待っていて、先着順に次々と乗り込んで
いた。一杯になるとすぐ出発して行くが、その間にも沖の方から別の舟艇が、エンジンの音高く
現われた。登勢が海岸だと思ったのは、漢江と云う(巾が四百米もある)河の岸辺であったらしく、
河を下って海上の船舶の碇泊地迄は、上陸用舟艇に似た型の木舟で行くらしかった。
そのあたりは、干満の差が甚だしい為に、大きな船は沖に碇泊するしか仕方が無いという事であった。
木造の上陸用舟艇によく似た舟は、ボート型であるが、縁が一米以上もあって、小柄な登勢の首近くまで
深く、中に座席はなく、立ったまま乗っていると不安定で、余り乗り心地のよい乗物ではなかった。
けれどスピードがあって、どんよりと曇った六月の海を走るには不足のない舟だった。
沖へ出ると大きな船舶が碇泊していた。「この船で故国日本へ帰るのだ。」
登勢は大きく目前にそびえる様に浮んでいる、引揚用の貨物船(米国から貸与されている引揚船、
VDサラバック号?)をたのもしく見上げた。
舟艇が近づいて、よく見ると、船には四十cm程の間隔に、踏板を縄で吊り下げた吊梯子が下っていた。
これでは、舟艇から縄の吊梯子に、乗り移るのも並大抵ではない。舟艇の縁をよじ登る様にして
渡る四角い板場が、吊梯子の下で、波に浮いてぶくりぶくりと、揺れている。
登勢は足がすくむ思いであった。
〃この危なっかしい梯子が、五才の繁一に登れるだろうか?〃。しかし逡巡するいとまは無かった。
古角芳夫が登勢の心を見抜いた様に、大山夫人の荷物をつめたリュックの上に良子を背負って、
「シーちゃん。頑張れよ〃。」と良子を励ましながら先に昇った。
繁一を米兵が四角い板場の上へ、舟から降ろした。登勢も続いて板場へと降りた。
繁一は不安定な板場から梯子への高い一段目の五十cm程の隔りが恐ろしかった。繁一は泣き顔をして
登勢を振り仰いだ。梯子にさっさと昇らないと、狭い板場は後の人が降りられないのだ。
下は海水が大きなうねりを作って船端を叩いている。少し風が出はじめたか水しぶきが飛んでいる。
米兵が横から小さな繁一を引き上げる様に引張った。反動で波に浮いた板場は大きく揺れた。
登勢は思わず、「あっ!。」と叫んだが、瞬間危く平均を取り戻して板場にとどまった。
繁一の足は高い梯子の下一段目にやっと乗った。秀坊を背に、肩からおしめの包を掛け、水筒、飯盒を
腰に下げた登勢に、繁一を支える余力は全然無かった。
唯、繁一が無事に船に乗る事が出来る事を願い、神の加護を祈るだけが、登勢に出来る事であった。
「気をつけて昇るのよ!。」繁一を先に、そして登勢が昇った。
時間が定時を過ぎるのを気にして、米兵は皆を急がせた。それでも梯子から海中へ落ちる者もなく、
無事に全員が乗り込んだのはもう黄昏が迫る頃であった。
引揚船には、秋乙以外の人も沢山乗っていた。満洲の方からの引揚の人々も一緒であった。
大きな船倉の様な船底には、毛布が置いてあって、毛布を敷いて横になった。
夜になって船が出発した頃から風が荒れ始めたらしく、船底に寝ている登勢達にも、波の音や船の
遥れるのが分る程になって来た。海が荒れ始めたらしい。
夜が更けると共に、だんだん嵐は強まって、船もきつく揺れ始めた。登勢は船に弱いので、
もう起き上る事も出来ない。人々の話声だけが、耳に入って来た。
「江華を出て二、三日もすれば、内地に着ける筈だが・・・・」
「この分では大分荒れているから仁川にでも引返した方が安全だろうね。」
「ここまで苦労して来て、船が沈むなんてまっぴらだね。」
「引き返したらしいね。どうやら港に留って避難するみたいよ。」
様々の話声が聞こえていたが、何時の間にか登勢は睡ったらしく、眼をさました時は、もう朝方
であった。船は碇泊しているらしいが、船底に転がっている登勢の耳にも、激しい雨風の音に混って、
「ざぶん。ざぶん。」と云う船を叩く波の音がまだ聞こえて来て、嵐が未だ静まらないのが判断できた。
船が碇泊している為か、登勢の船酔は治まり、船底から甲板のトイレ迄良子を連れて、何度も通った。
船底から二階へ渡した梯子段は、急な傾斜で五十段以上は充分あった。
甲板へ行くには、二階からもう一つ三十段程の急な階段を昇らねばならなかった。
登勢は女学校の時(昭和七年)修学旅行で、竹生島の(琵琶湖)長命寺へ行った時に、山上の長命寺迄
の石段を登った。その頃は、未だ土産物を売る店も少く、長命寺の石段も急で、段数も多く、汗を
ふきながら昇ったが、船の階段はもっと急であった。それに巾も狭く、危険であった。
日に二人程が足を踏み外して、上から転げ落ちた。
栄養失調で殆んどの人達が下痢をしていた。日に何回となく良子を連れて、甲板へ上る時には、
その度に、登勢は、おんぶ紐で良子を背にくくりつけて、両手でてすりにすがる様にして昇った。
乗船して三日目の朝には、二晩も荒れくるったさしもの嵐も静まり、船は出帆した。
嵐が去り、雨も止んで、青空には白雲が浮かんで、人々は生気を取り戻した。
船は故国日本を目指して、白い泡を小さな流れの如くに船尾から吐きながらその翌日も次の日も航海
を続けた。もうすぐ故国に帰れる喜びを前に、登勢は肝臓をそこなったのか、その日も朝食
(ひじきに芋のつるのスープと糠を混ぜて作ったビスケットとお粥)が、どうしても咽喉を越さなかった。
〃三人の児を連れて帰る迄は、どんな事があっても倒れられない〃その思いが彼女の体を支えて
いるものの、急な階段の昇降は大変辛かったので、船底で横になっている事が多かった。
「日本が見えたぞ!。」「帰ったぞ!。」その様な叫びを聞いて、船底で休んでいた人達迄が
甲板へと昇って行った。
船のエンジンは未だ止まっていないらしいが、「見えた!。」 「帰った!。」
と云う言葉が船中に、こだまを呼んでいる感じであった。
やがて「沢山の人で何も見られない。」と云って柳沢の幸子と栄子が下りて来た。
少し時間がたって樗木が下りて来た。
「一杯の人で陸地を見るのも大変ですが、やっと日本へ帰りました。未だ接岸していませんが、
もう三時間もすれば甲板の人も少なくなるでしょう。」
と笑みを浮かべながら云った。
黄昏が静かに幕を下し始めた頃、登勢は甲板へ上って行った。未だ多くの人が、甲板に釘づけに
なった様に、陸とは反対の西の海に沈む夕陽を見ていた。金波銀波をさざめかせながら、
陽は真赤に燃えて、波間に落ちて行った。残照がわずかに空に漂よって、対岸の陸地は、
ぼんやりと幻の如くに見えた。
〃この引揚船は沖で碇泊して、そのまま一週間の検疫期間を過すのだ〃。と云う人や、
〃明朝明るくなってから接岸しないと、魚雷が残っているのに当ると危ないからだ〃。
と云う人や様々の事を云いながら、誰も動こうとはしない。登勢は東の方に、うすくぼんやりと
見える陸地を、丸で蜃気楼を見る様な思いで眺めていた。
「あれは博多だそうです。」
すぐ横で萩原夫人の声がした。友久夫人も一緒であった。
そのうち海岸線上に浮んだ陸地に、灯がチラチラと見え始めた。
「ああ!灯が見える。」
「博多の灯が見える。日本内地の灯。」
敗戦の日から、〃心のともしび〃として登勢を支えて来た、故国の灯!。
蜃気楼でもない。夢でもない。歓喜に打ち震える胸は、このま、鼓動が止まるのではないかと思われた。
何時の間にか眼頭に溢れて来た涙に、〃故国の灯〃が霞み、滂沱と登勢の頬を涙が流れ落ちた。
[完]
「後書き」
終戦後すでに三十数年を経ている今日でも,尚戦争の
傷跡を背負って生きている人々がある。
そうした人々の
中の一人に、本書の著者「吉田和乎夫人」がある。
吉田さん一家は、終戦当時最も混乱した北朝鮮平城郊外
の秋乙で、
誰もが経験したことのない毎日を生き抜いて
きたのである。
同じ時代に生きた人間であっても、境遇や運命は、人に
よって異なっている。
殊に吉田さんの場合は、本人の
意思にかかわりなく、全く予想外の運命に翻弄され死に
直面した毎日を送ったのである。そんな日常の中で著者は
敗戦国日本の軍人の妻として、
又、一家の主婦として、
母として、女として、生々しく身に沁みて受けてきた。
不安や恐怖や屈辱的な体験の数々を書き連ねた手記を、
「文学圏」に連載して好評を博した。
この度機会を得て
その手記を一巻にまとめ、自分たち一家の宝塔として、
後世に遺す決心をされたのである。
これは、文章の巧拙を超えた一人の人間の、
いや終戦
直後に異国の混乱した中に生きてきた、日本人の一人としての、
魂からほとばしり出た貴重な生な記録なのです。
私は同好の一人として、貴方この一巻を心よりお奨めしたい。
文学圏社 木村貞康
著者(吉田 和乎:登勢子)略歴
*大正7年8月:宍粟郡山崎町 医師友澤辰冶郎長女に生まれる
*昭和11年3月:県立姫路高等女学校卒業
*昭和13年5月:神埼郡福崎町 医師吉田繁(18代眼科医)と結婚
*S.15.12.長男繁一誕生;*S.18.12.長女良子誕生;
*昭和19年10月:軍医繁と平壌府秋乙陸軍官舎に移住
*S.21.1.次男秀夫誕生;
*昭和21年6月:敗戦後博多に引揚げ 福崎町に帰郷
*S.24.1.次女公子誕生;
*昭和25年4月:婦人の友・友の会にて幼児生活圏を始める
*昭和34年10月:二葉保育園(幼児生活圏改め)主任保母
*昭和39年3月:町立福崎保育所(二葉保育園改め)設立し保母退職
*昭和49年1月:文学圏に入会
*昭和52年8月:NHK「ロシア語講座」視聴者ゲストでTVに出演
*昭和54年11月:『故国の灯』出版
**吉田繁・和乎 金婚式祝宴:新北京:1988*
第一巻三人食事(8名)の画像はParis[Taillevent]